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失われた40年 日本とアメリカ

2008/10/22

1968年、既成社会に対抗して暴力的運動が欧米の大学生世代に広がった激動の時代から40年。その時期の当事者は現在60歳前後、その人たちが社会で指導的地位になり始めた1988年日本の経済の崩壊が始まった。

アメリカでは、さらに、学生運動に加えベトナム戦争の激化による当時の若者の徴兵制度への不安と反戦運動の激化。ベトナム撤退後のアメリカ経済や社会倫理の崩壊、それらを体験し見てきた当事者世代が指導的権力を得ると、また中東で泥沼戦争を繰り返している。

だが、1945年、日本の敗戦を青年時代に体験した現80歳代の世代、どんな理由であれ戦争回避の意志は強く貫き、軍事産業なしに経済を負の遺産から世界第二位の経済大国に仕上げた世代、このことも同様に忘れれられている。

残念だが人間はこういったものかと思わざるを得ない今日である。

ノーベル賞で 国籍法改正検討 呆れた理由 人権について認識のない知性の欠落した政治家

2008/10/15

産経ニュースWebによると自民法務会部会が、ノーベル賞を受賞した南部博士がアメリカ国籍を取得されているため国際的に日本人ではないので、二重国籍を認めない日本の国籍法改正を検討している話。

前にも書いたように、国籍法のために多くの人が、人権を侵害され、社会的損失を被っている事実があり、何十年も前から訴えが行われているのに意に介せずにいた政治家が、ノーベル賞の国別受賞数の数のカウントを増やすために国籍法を改正を云いだす、どこまで知的レベルの低い発想だろうか、それとも、政治権力の都合で個人の人権まで左右してもかまわないと思い込んでいる奢りであろうか。

これまで、身体の不自由な人々が、無神経な法規・規制のためにどれだけ人権を侵害され不利な社会的扱いを受けてきたか、多くの場合、国際的な勧告を受けて初めてしぶしぶ改正されてきた事実があり、現在は高齢者の人権が年金や医療制度、交通法規など法的に侵されている事実が浮かび上がっている。

日本の政治家も官僚も先進国としての教養と常識を勉強して、みんなで築いてきた日本を辱めないでほしい。

ノーベル賞 はじめての新婚旅行

2008/10/11

今朝テレビで、受賞者のどなたかの奥様が「私たち新婚旅行はしていません、今回のスウェーデン行きがが新婚旅行になります」と云われていたのが妙に印象的だった。

つまらない事と思いながら頭に浮かぶのは、授賞式の出席旅費はノーベル賞財団が招待するのだそうで、飛行機はおそらくファーストクラスで待遇すると思うが、現職時代、公費で出張する研究者が、ファーストクラスはおろかビジネスクラスを使うひとはどれだけあるだろうか。もちろん現地に到着しても友人の出迎えを受けることはあっても、学会などでは自分で目的地まで行くのである。

それに引き替え、組織から離れればただの人となる政治家や上級官僚が、お付きを従えてファーストクラスで出張する姿、現地では在外公館が世話をする大名旅行、本人は出世した証と思っているかもしれないが、低開発国の証のような光景だ。航空業界がグローバル化した現在は知らないが、1990年代まで、日本航空や、大韓航空など政府系の国際航空路線は、ファーストクラスの席がかなりの座席数確保されていて、通常は空席で飛んで居るのが目立った記憶がある。同じ時期、政府系のランチリ航空でニューヨークケネディーからサンティアゴまで往復したとき、座席数を数えてみたら、ビジネスクラスが10席、ファーストクラスが8席だった、貧乏な弱小国だからと云う解釈もあろうが、行きにはビジネスクラスの席の予約を取るのが困難な状況で、帰りには、搭乗してから正規運賃のビジネス客をファーストクラスに席替えして調整していたのを思い出す。

これはたまたま見たことを思い出しての感想である。

益川先生の授業風景を見て

2008/10/10

テレビで益川博士が京都産業大学の1年生のクラスで花束を受けるシーンを見た。「おめちゃでかわいい」と女子学生、産経ニュースの記事。ノーベル賞クラスの先生が新入生のクラスで一般物理の授業を持つ、これは教育にとってとても大切なことと思う。ただ、ノーベル賞のニュースを見るまでは、学生はただのお茶目なやさしいおじいさんとして授業に出ていたのではないだろうか。おそらく、これからは、こんな先生のクラスに登録したラッキーさを満喫し、授業の内容ばかりでなく先生がされる冗談の受け取り方も変わると思われ、将来研究者にならなくても強い影響を受けるにちがいない。

一般に今の大学では、長い研究生活をして定年になってから、初級クラスの教室を受け持っている教授は多い、残念だが、新入生の学生には、先生がどんな研究者でどんな意図で授業をしているのかを理解できるまでには成長していない。京都産業大学はどうか知らないが、多くの大学ではクラスを担当する教授の研究紹介がないので、ただ教科を教えてくれる先生としか見ていない。大学は教授陣の研究歴などを紹介・解説するインターネット・ウエブなどを構築して、教室で教えることは単に教科の知識ばかりでなく、研究者としての経験を踏まえての授業であることを理解させる努力が必要と思う。現在多くの大学では学生から、各教室での担当教授の評価をアンケート方式で取っているが、わかりにくいとか、黒板の字が見えにくいとかいった苦情が目立ち、これは、大学の教育では、研究経験豊かな研究者から学問へのトレーニングを受けるということを理解させることも必要であろう。

一方、研究者を育てる専門性の高い大学院で、ノーベル賞の対象になるような業績のある教授も、一律に年齢だけで定年制が適用されていることは学問的損失が大きく、どうしてこんな幼稚な公平性が支持されているか、国立大学の職員が国家公務員でなくなった今、大学の人事の自主的な運営ががどうして生まれてこないかが残念である。

ノーベル物理・化学賞の快挙

2008/10/09

昨日から新聞の見出しやテレビ各局は、受賞者3博士のインタビュ記事で満杯だ。本年度物理学賞、日本が独占のニュース。また、遅れて化学賞に下村脩博士。こんな嬉しいことはない。

日本の中学生高校生に希望とあこがれが生まれ、勉強の動機を与える様になればなによりの贈り物と思う。

60数年前、湯川博士の受賞に励まされて、日本の貧しい時代の若者が日本を立て直そうと自然科学の勉強に励んだ時代があった。今回の受賞者はその時代の研究が発端となっての成果である。

根拠はないが、同世代を生きた我々にとっては、今年のノーベル賞委員会は1950-70年代の日本の科学研究の歴史をまとめた象徴的な演出のように読めなくもない。この時代、目覚ましい日本の科学技術の発展期、その中でもこれを二つの時代に分けることができると思う。

南部、下村博士に代表される第一世代は日本の最貧の環境で研究成果を挙げその能力を買われて研究環境の良いアメリカに渡り研究を続けた頭脳流出の時代。

第二の世代は60年代後半から、まだ大学・大学院の研究環境は劣悪であり、おまけに一部の活動家による暴力的な大学紛争が起こり、大学のキャンパスは激動の時代で大部分の学生は勉強に意義を見いだせない時代であった。ただこの時、大学の理工学系では学部や研究所の増設が始まり、大学や研究所に人材の需要が生まれ人事の交流が本格化したことが研究環境を変え、国内でも研究活が続けられるようになった。また1970年に入るとアメリカの経済状態が悪化、大学でも学部の廃止や研究費の縮小により外国からの研究者の招聘の余裕が少なくなった。小林、益川博士はちょうどこの時代の学者と云えるかもしれない。

益川博士はテレビインタービュで、英語嫌い、パスポートを取ったことがないとメディアに芸人並のサービスをされているが、これを本気に受けては大間違いである。自然科学の研究では、最先端の研究コミュニティーに仲間入りすることは不可欠で、そのほとんどは英語の論文で占められている。1960年代に入って日本ではやっと、主な大学や研究所では世界中で重要視されているこれらの学術雑誌を揃えられるようになった、そんな時代でもある。現在のように、誰でもインターネットで大量の論文が読める状況ではことさら英語のままでの速い内容把握力は不可欠である。

1980年代、科学を否定し、非生産的なマネーゲームに浮かれ、破堤した日本社会、これを契機に、若者が日本を立て直すのだと奮起してくれることを期待したい。

政治家の水をかけるようなコメントでわれわれの知的文化の盛り上がりとプライドをぶち壊さない様に願いたい。

予算委員会 「えー あー おー」 の税金浪費

2008/10/06

今、NHKで予算委員会のテレビ中継をやっている。質問、あるいは答弁の発言中、エー アー と発声している時間が非常に耳障りだ。どうして政治家はこんな意味のないことに時間を浪費するのだろう。もし相手に伝えたいメッセージが強ければこんな時間の無駄使いは起こらないはずだ。もちろん発言の内容も、意味のない時間つぶしが多いよう感ずるが、この判断は主観によるところがあるので、まず手始めに、映像機器の完備しているテレビ局などで音響的に分析して予算委員会や国会での政治家の発言時間全体の中で えー あー の発声や、空白の合計時間と、言葉を使っての発言時間との比率を出したて見たらどうだろう。 そして、国会開催経費の時間当たりの金額から えー あー 時間の損失を金額で出してみたたどうだろう。またマイクも大臣席にセットすれば空白時間の無駄が省ける。

云いたいこと、相手に伝えたいこと、内容のある説明をしたいことがあれば、おのずと早口になるのが当然であり、動物の怠け者の行動を連想するような受け答えにはならないはずと思うがどうだろう。

大臣の発言には責任があるから、内容のあることは云いたくないとの心理が働くのかもしれないが、政治家には、大事なことに間髪を入れず適格な回答をし、相手を説得し信頼感を与える資質も大切ではなかろうか。

細かいことだが、税金の無駄遣いはまず国会からと云いたい。

世界の経済危機 作られた国際経済戦略か?

2008/10/03

今月発表のSTANDARD&POOR’S のプレス・リリース 「世界市場・国別パフォーマンス」を経済規模の大きい国だけに限って見てみよう。

株価指数の年初来の騰落率(%)は

騰落率
アメリカ -19.5
カナダ -22.7
日本 -23.2
フランス -30.3
ブラジル -31.1
イギリス -32.0
ドイツ -33.7
オーストラリア -35.0
中国 -46.4
ロシア -46.9
インド -50.3

REIT (不動産投資信託)の市場パフォーマンスは

騰落率
アメリカ -2.5
フランス -17.6
ドイツ -18.0
イギリス -26.6
日本 -36.6
オーストラリア -43.1

状況証拠で見た場合どの国が一番下落率が小さいか。相対的にどの国が得をし、損失の大きい国はどのグループか?

今回の経済危機はアメリカのサブプライム・ローンと云うことになっているが、アメリカのREITは極端に下落率が小さい。経済指標の詳しい見方を知らないが、下落率だけで見るとアメリカの損失は少ないように見える。

一方、世界経済で規模が急激に大きくなった中国、インド、国際社会でのロシアの台頭、これらを脅威と感じているのはどの地域の国か。

こう見てくると、今回の経済危機は、ノーベル賞クラスの経済科学の学者が多いアメリカ、計画された経済組織の戦略の一端であるとの妄想に駆られる。経済現象も長い目で見れば物理学の法則に従うとすれば、資本は分散してしまえば活動が鈍る。物理学の法則は、分散の度合いをエントロピーで測り、これが小さいエネルギーは活動的であり利用価値が大きい、エネルギーは使えば使うほどエントロピーは増大し、エネルギーの価値は減少する。エントロピーが増大しきったエネルギーはゴミのようなもので捨てるしか方法がないのである。分散し過ぎたた資産も活性化するためには、利益を生まない不良資産を損失覚悟で捨てて相対的に価値を生む資産を集中させることになろう。こう見てくると、資本を回収され、価値の低い資産だけが捨てられ、ゴミ箱とされたのは新興国と云うのは言い過ぎだろうか。

これは、なんとなく連想した妄想であることは承知の上で書いてみた 仮想のお話ではある。

道路交通安全の実績 日本とイギリスとの比較

2008/10/01

JOINT TRANSPORT RESEARCH CENTRE OF THE OECD AND THE INTERNATIONAL TRANSPORT FORUM   2008

COUNTRY REPORTS ON ROAD SAFETY PERFORMANCE

http://www.internationaltransportforum.org/jtrc/safety/targets/Performance/performance.html

上記の資料に基づいて比較的地理的な交通事情の似たイギリスと比較してみた。

データはそれぞれの国が発表した概略値であって統計的な詳細が不明なので詳しく分析できないが、下図の人口十万人当たりの年齢別死者数を見ると日本では高齢者の死亡率が高いことが分かる。

                                     第一図  日本                                  第二図 イギリス

右のグラフは2004年についての比較で、日本は、高齢者の死者が顕著に多い、また6-14歳の学齢期の死者も多い。他の年齢層では、日本の死者数はイギリスの60%程度で交通安全性の高い国と云える。この原因を考えてみると、詳しいデータが無いのではっきりしたことは言えないが、日本では歩行者が多い年齢帯で死者数が多くみられるのではないだろうか。

下のグラフは、交通方式と死者の関係で、日本は自動車交通に比べて、歩行や、自転車交通の死者割合が高いことがわかる、この結果から推察できる事は、歩行や、自転車での交通手段を利用する割合が多い年齢帯で死者数が多いのではないかと云うことである。状況的に見ると、日本では学童の通学は歩行と自転車であり、欧米先進国は保護者の運転する自動車か通学専用バスであり大きく異なっている。また高齢者も公共のバスや、電車を利用するためには歩行が必要であり、また高齢者の自転車利用も多い。このことが、日本での高齢者や学童の事故死が多いのであり、この基本的な交通方式を考慮しなければ、交通弱者保護と云うだけでは解決出来ないように思う。

足腰の弱った高齢者にとって自動車運転の交通手段は唯一のものであり、また安全である。前にも何回も書いたが、どの科学的統計を見ても高齢者運転が他の年齢層の運転者に比べて社会に危害を与える証拠はない。ただ高齢者運転者の数が増えたために事故数が増加しただけのことである。

                                                                                                                    第三図

                                                                                                                                                                         

                                         第四図   日本                                                 第五図   イギリス

交通事故統計には、歩行中の単独事故(躓いたり、滑ったり)が入っていないので、このデータを取り統計に入れれば道路交通の死傷統計は歩行が最も危険である実態を知ることができよう。

統計ではなく、旅行中に見た感じだが、自転車の盛んなヨーロッパでも、自転車は若者の交通手段であり、日本のように高齢者の自転車はあまり見かけない。 欧米を数万キロメートル運転経験を持つ自分としては、日本の運転者は特に際立って無謀運転しているとは思わない、むしろ規則を守っている方だと感じている。監督官庁の警察関係の人は、日本の運転者に規制を強化し教育しないといけないと云いたいでしょうが。第三図のような恥ずかしいデータを国際的に発表しなければならないことについて、交通システムの不合理な管理運用の責任が大きいことに気ついてほしい。

警察庁関係のどれだけの人が自動車交通先進国で生活し、各種交通状況を体験した上での見識を持っているのだろうか。

人権に無頓着な権力体質と戸籍法

2008/09/28

外国で、学問や芸術・文化または経済活動で活躍している日本の家族が多い現在、それぞれの国で生まれた子供の国籍問題で悩んでいる人は多い。今日の新聞にも2重国籍を認めない日本の国籍法で困っている人の記事を見た。一部の政治家は日本人としての誇りを失わないためだと云っているようだが、国土交通大臣を辞任した中川氏の「日本は単一民族だ」と云うのと同じレベルの低い思い込みだろう。

今から30年余り前、アメリカのニューヨーク州立大学で当時物理学の助教授であった日本人家族と懇意だったが、その友人は日本国籍を失いたくないのでアメリカ国籍を取らず、お嬢さん2人も日本国籍に登録しようとして非常に困惑したと聞いた。それは、御嬢さんの一人はアメリカではもっとも一般的な女性名Lisaであったが、当時日本の国籍法ではRisaとしか登録出来なかった、これでは、アメリカで受けた教育記録や、パスポート、自動車免許証など公的な身分はまったく別人になってしまう。この話を日本人に話すと、困りますねと同情してくれる人が多いが、東大出身で官庁から日本政府の経費で留学してきたキャリア官僚に話したら、そんなことかまいませんとの返事。呆れたと云っていました。中川氏も大蔵省キャリア出身と聞くと、人を人とも思わない権力志向の放言は彼の本音のような気がする。

ちなみに、Babylon辞書で Risaを見てみると ● Risa, the Spanish word for laughter. (大笑い?) そして スタートレックの仮想惑星名 ● Japanese name for women. これはいつ頃記載されたのだろう? ウィザ(Risa)と呼びかけられてリィサ(Lisa)さんはとっさに反応できるだろうか。入国管理官が日本語のRisaを知っていてRisaとLisaは同一人物と解釈してくれるだろうか?

前にも書いたが、最大の人権侵害は戸籍簿である。戸籍簿は、封建時代、日本でもヨーロッパでも、土地と農民が領主の私有財産であった時の財産目録の延長と思うが間違いだろうか。これは単なる私の作り話だろうか?

どなたか学者の方に歴史的に正しいお答えを頂けたらと思っています。 

メールありがとうございました

2008/09/25

mii さん こんにちわ

ところで、お読みいただいたなかで、何箇所か、これはちょっとと思われたようですね。 mii さんと同じ感じをもたれた方がほかにもあるかと思い、ここで言い訳をさせていただきます。

私は研究者の生活をしてきたわけですが、研究者の評価基準は、その人がどんな論文を書きどんな業績を上げてきたか、どんな研究協力者が得られるかを客観的な資料により判断します。実績の分からない人が、どんな立派な研究計画を立てても研究費はもらえません。これは人を差別するのではなく、人は過去にしてきたことの上に信頼が生まれるものです。政治家もどんな法案に賛成し、反対してきたか、その履歴の上でなければ立派なマニュフェストも無意味です。

「約束は守られて初めて約束に数えられる」 これはアナン前国連事務局長の日本の政治に対する言葉です。

お酒のことですが、周囲に悪臭を撒き散らすほど飲む、これは禁煙と同じで当然禁止されるべきです。ではその限界は、これは難しいのですが、欧米では、シャンパンやワインなら1グラス、ビールなら日本の小瓶程度でしょうか。食事を一緒にするかどうかでも変わりますからなんとも言えません。私はビールをグラス一杯でも赤くなり飲んだことがわかりますが、友人たちの評価では酔っ払っているとは思われていません。車の運転も、日本ではしませんが、私は欧米ではこの程度の飲酒では運転しています。事故はもとより運転ミスで警察に止められたこともありません。ドイツは例外のようですが、日本のように、一斉に停止させて飲酒検査をするようなことはなく、パトカーに怪しまれれば後をつけれ、何かの違反を犯したとき停止させられて検査されます。もちろん、飲酒運転は有罪であり、事故を起こせば責任が重いのも日本と同じです。日本のように飲酒運転の同乗者まで罰を受けるのは常識では理解できません。

親心なのでしょうか?

では また、