尊厳死・安楽死・QOL・Living Will
•• 尊厳死
尊厳死(そんげんし)とは、人間が人間としての尊厳を保って死に臨むことである。
本来、病死を含む自然死であれば人間は尊厳を保ったまま死にゆくことができるはずである。しかし医療の発達によって延命技術が進歩したため、死を迎える段階でただ「生かされている」だけの状態となってしまうことが多くなった。 こうした状態で死に臨むことを望まない立場から、「尊厳死」の概念が発生し広まってくることとなった。 また、病気の苦痛にさいなまれた状態から解放されて死を迎えるというのも尊厳死の一部である。
尊厳死を保つための手段のひとつとして、まず苦痛から解放されるためにペインコントロール技術の積極的活用が挙げられる。 そして、無意味な延命行為の拒否(消極的安楽死)も挙げられるが、実際に死を迎える段階では意識を失っている可能性が高いため、事前に延命行為の是非に関して宣言するリビング・ウィル(Living Will)が有効な手段となる。
• 安楽死
安楽死(あんらくし)とは、末期がんをはじめとした「治療不可能」かつ「苦痛の強い」疾患の患者を救済するため、医師などが積極的あるいは消極的手段によって死に至らしめる事。
QOL悪化防止の唯一の手段が死亡でしかない場合の最終手段であると言える。医療の目的を病人の治療とするならば安楽死は医療の目的と正反対と言うことになるが、病人の苦痛を取り去ることを目的と考えるなら立派な医療行為と解釈することもできるものである。
• クオリティ・オブ・ライフ
クオリティ・オブ・ライフ(Quality of Life,生活の質,略語:QOL)には、広義のQOLと狭義のQOLがある。広義のQOLは人生の質とも訳され、この場合のQOLの向上とは患者のみならず市民の健康増進を図る事を意味する。狭義のQOLは生活の質とも訳され、この場合のQOLの向上とは患者の日常生活をどれだけ苦痛の少ないものにするかと言う意味で用いられる。
以上、
Babylon 辞書より (Wikipedia.org の内容)
Living Will: U.S. Living Will Registry を例に取ると、医療ケアーの意思を個人や家族が登録するシステムがある。この記録をオンラインで医療機関は見ることが出来る。アメリカの場合、連邦法の他に州法があり、法律的な効果は一律ではない。連邦法では、各病院に相談窓口を置きこの登録の法的効力を含め事前に説明する様要求しているようだ。
とにかく、このような倫理と、個人の尊厳の問題を法律で一律に決めるのは、不可能だし間違っている。法律が無いからといって関係者が困難な問題から逃げ患者・家族の意思を無視するのも独断的”医療行為の一つ”であり責任は重い。
患者自身の意思の事前登録を含め、患者、家族、医療関係者が経過を公的に確認できる方法で記録しておくシステムが必要である。その際、登録内容が法律に守られるかどうかを、細部についてまで問題にしないことの合意を得て作成することである。 尊厳死
。
ニュスメディアの責任 尊厳死問題
また起きた尊厳死問題
私は、現在起こっている問題は別のところにあると思います。本人の同意を得たとか、家族の同意を得たとかいう問題が起こるのは、法的に有効な記録を残すシステムが無いからです。これには、医療機関からの要請で裁判所が24時間公的記録を取る体制を作る以外方法はありません。
現在各医療機関で、倫理規定などのマニュアルはありますが、医療現場の関係者が限られた状況で裁判に耐えられるような完璧な記録を残すことは不可能です。
患者や、家族と信頼関係の強かった医師ほど、こういった問題に関わることが多いように思います。それは、危機に瀕した患者はもちろん、現場に付き添った家族も冷静な判断が難しかったり、疲れはてていて判断力がうすれそのときの状況をよく記憶していない、後になって後悔の念がわいたとき、悪意でなくても誰か人のせいにしたい、こういった思いは募るものと思います。
裁判所が現在進行中の法的に困難な問題から逃げ、裁判になったとき現場の揚げ足取りをしても何の解決にならないと思っています。
諸外国では裁判所がこのような問題に対応している場合があるのに、なぜ日本の裁判所はではそのような体制が取れないのでしょうか。
昨年アメリカで連邦最高裁判所が人工呼吸機を外す裁定をしたとき、世論ばかりか大統領まで宗教的な内容のコメントをして、大きな社会問題に発展した事を思い出す。裁判所の裁定どおり医療機関は実行したが、家族に対する取材で、国家がそんなことに介入する権利はないと嘆いている場面を見た。メディアはそのような場面を強調し感情に訴える手法をとるものであろう。家族の同意について補足すると、署名入りの同意書を取っておけばよいとの意見が出てくるかと思うがそんなに簡単な事ではない。
一例として、裁判所が対応する制度のあるヨーロッパで、宗教的信条で輸血するか、しないかの問題が起こって、患者本人の意思の確認を取ったとき、親族が立会する場面では輸血拒否の意思を表明したのに、裁判所への申告では輸血を要望した事例を読んだ事がある。これは、患者自身が回復したときに、同じ宗教の親族や友人を失う恐怖から異なった意思表示をしたとの調査結果であった。
この事実から、患者に付き添っていて尊厳死を決断した最も親身であった親族が、後になって兄弟や親類から非難される可能性は十分に想定される。
高齢者運転事故について警察庁交通局データより
高齢者の自動車運転について
高齢者運転講習の不合理
王立エジンバラ植物園の花
習慣の違い
外国で生活している人たちのブログの書き込みやコメントから。
ドアを開けて待っている話
日本ではエレベーターのドアを閉めるボタンがついているのが常識だが、ヨーロッパではこのボタンが無いことが多い。イギリスだと自分の行きたい階数のボタンをもう一度押すとドアが閉まるようになっていることが多いが、ドイツだと、ただしばらく無言でドアが閉まるのを待つのみということが多い。このあたり、ドアを早く閉めたいせっかちな日本人気質とのんびりしたドイツ人気質を反映しているようで面白い。
日本だと、人が乗ろうと近づいて来ていても知らんふりをして鼻先でドアを閉めてしまうことが多いが、イギリスだとたいがい開けて待っていてくれるというマナーのよさは見習いたいものだ。これはエレベーターのドアに限らず普通のドアでも当てはまる。
日本の大学で興味ある体験をしました。白人の大学院留学生(白人だからといって欧米人とは限らないが)が、私の前を歩いていて入り口のドアを開けて建物内に入ったのですが、私はドアを持っていてくれると思い近づいたら鼻の前で閉められました。ドアははガラスで外の方が明るい時でしたから当然後ろは見えたはずです。もしかしたら、日本ではドアは自分で閉めるのがマナーと理解していたのか? もう一人、この人は白人でカリホルニア大学出身者でしたが、お茶を飲むときすすり音を出して飲んでいました、これは日本人と親しくするための雰囲気を出すためとのことでした。
エレベータでは、最近田舎の町の駐車場では足音がするとドアを開けて待ってくれる人や、荷物を持っていると降りる階を聞いてくれる人が出てきました。これはマナーと言うより、生活に余裕があり、社会人として良く思われたいという、欧米人と同じ発想と見ています。
白人でもドアを開けて待ってくれない人はいます。たとえばドイツなどはあまり待ってくれません。(日本よりははるかにましですが)
エレベーターの階数表示
エレベーターの階数表示にはアメリカ式とヨーロッパ式があることはよく知られている。ヨーロッパでは一階のことを地上階と呼び、一階はアメリカでは二階にあたる。日本はアメリカと同じ。この地上階、イギリスではG, ドイツではE と表示される。
フランスのエレベータは0階から始まります。日本の2階がこちらでは1階になります。
ドアーの開閉のボタンは付いているところ、付いてないところがあります。どちらにしても困るのはユダヤ人のようです。主日に働らくのは律法で禁じられているのでエレベータのボタンを押すこと自体、仕事なのでこのような時はエレベータの前で人が来て押してくれるまで待っています。イスラエルに行った時はホテルのエレベータは主日は自動的に各階止まりになっていました。
建物の階数の表示では、さすが自然科学の発祥の地ヨーロッパは論理的であると実感します。地下がある場合、日本やアメリカ方式では、地上と地下との表示のつながりに矛盾が生じます。グランドフロアを0階とする方式では地上を+地下をーで表示できますが日米方式では言語の表示を併用しなければなりません。
ヨーロッパが論理的、なるほどそういう考え方もありますね。でも、実際には-1,-2と表示するより、UG、UG2としているエレベーターが多いようです。
文化、宗教、習慣の違う外国に行ったとき、あらゆることに注意を払ってその土地の人たちがどのような行動をしているかをよく観察することが大切と思う。
もちろん、猿真似をすると、上に書いたように、日本人は後に続く人が居ようと居まいと自分で開けたドアーは自分で閉めるのが礼儀と解釈すると(かりにそうだとすると)滑稽なことになる。
そのあたりでもう一つ大切なのは、社会人としての余裕のある態度を見せることが「かっこよい」ことに繋がるということ。ある程度の教養があり生活に余裕があるクラスの欧米人は、自分をいかにかっこよく見せるかに注意を払っていて、その行動が我々にはマナーのよさと見えるのではないかと思う。
これらの違いを、面白いと感ずるか、厄介と感ずるかは人それぞれと思うが。