コンテンツへスキップ

暖冬の春

2007/03/01
通常ならばホトアルバムに投稿するのだが、なぜか2月25日以降書き込みが出来なくなった。
ブログ記事に画像を投稿してみる。
 
写真は2月28日に撮ったもの、白梅はこの日の強風で半分ほど散った。

昼間点灯走行社会実験 広島市の場合

2007/02/27
広島市の広報に表題のアンケート実験の結果が報告されていた.。
実験は、バス、タクシー、市民モニター、市職員、公用車、それぞれ対象人数、254,464,106,101,208名規模のもので、ほぼ同数の点灯、非点灯グループに分けた結果の分析についてのものである。
調査項目は、危険度ばかりでなく、燃料消費量の増加、ヘッドライト、バッテリーなどの消耗経費など、ほぼヨーロッパで行われている調査項目を網羅している。
これは、調査に協力した人々の個人的経験のアンケート結果報告と見るべきで、行政が今後の点灯走行を検討する資料としては意味があるものと思う。
ただし、このような少数のモニターでは、実際に起こった事故件数は少なすぎて ”まれに起こった” 事象と見るべきで、点灯実験による、事故率の増減の判断資料にはならない。その証拠に、
報告Ⅰ 「昼間点灯走行社会実験の結果報告」 実験結果 2.(1)表では夕方の16時~18時までの時間帯以外は点灯グループの方が事故件数が多く記録されている。
 
報告Ⅱ 「昼間点灯事業者へのアンケート結果報告」の 4.項 「昼間交通事故の発生状況について」に、実践前と実践後で比較すると、事故発生件数は27.7%減少とあるが、どんな根拠でこの数字が出たのだろうか? アンケートに回答したわずか1000台の車が半年間市内をライトをつけて走ったことで、実験をしなかった前年度と差が出るものだろうか。また、実践年度の事故が146件とあるが、点灯実験に当たった1000台の車が200~150件もの何らかの事故を半年間に起こすものだろうか。
結論の根拠となったと見られる、参考の「事故類型別昼間交通事故発生状況比較表」は、以下のような科学的な(統計学的な)間違いを犯している。
表の最後の列に、それぞれの区分について事故の増減率を3桁の%で表し、おまけにその合計の単純平均まで記入している。
このようなことは、警察の交通資料などによく見かけられることであるが、たとえば、昨年4件の事故が今年1件になったから75%効果があったとの願望は分かるが、このようなまれな事象では、件数の増減は偶然の結果であって判断基準にはなりえない、まして、件数の違う各項目について算出した増減率を単純平均した値は何の意味も無い事は少し考えれば分かることである。
また、単独事故も25%減少したことになっているが、昼間ライトをつけて走ることで電柱に衝突する確率が減るだろうか。
 
これは、揚げ足取りのように見えるが、事故減少率が25%と云うのは、1970年代のカナダや北ヨーロッパで発表された値には見られるが、統計学的に吟味された現在の各種の報告では5%程度、あるいはそれ以下と云うのが常識である。
税金を使った行政側の要望としては、良い結果を示す圧力があるかも知れないが、研究調査でポジティブな結果が出なかったから、無駄遣いと言うことにはならない。
 
先のブログに書いたアメリカ政府機関(NHTSA)の例は、医療効果などの判断に用いられるオッズ(odds)手法を用い、統計的手法の信頼度を含めて公表し、読者が独自に判断出来るよう配慮している。残念だが、この報告書の結論は、NHTSAに比べるとまるで、大学院生と、小学生のレポートの違いほどの差を感じざるを得ない。
それでも、先の警察庁の報告書より調査項目に具体性があり、アンケートとして高い社会的な価値があるとおもう。

昼間点灯走行で費やされるエネルギー、放出されるCO2

2007/02/26
乗用車の昼間点灯走行(DRL)での交通事故死者の減少率は、欧米諸国では5%程度と予想しているのが大勢である。この効果は太陽高度に影響するので、緯度が低い(太陽高度が高い40度以下)の日本ではDRLの効果はもう少し低いと考えられる。
ヨーロッパでは、EU全域の推定値として、年間に25,000人の命がDRLによって救われるとの報告も見られる。
上記は、車対車の場合であるが、歩行者に対する事故死者の減少率は12%と推定されているので、対歩行者事故の確率が大きい日本の道路環境では、DRLの効果は大きいと思われる。
 
気になる、CO2放出の増加率であるが、
昼間点灯による燃料増加率は、ロービームのヘッドライトの場合、1.5%程度と見積もられている。アメリカで新車に装備され始めたターンシグナル用の電球による昼間走行灯であれば0.3%に抑えられると云う。この値は、一ヶ月500km昼間走行する人が、近くのコンビニに車で行く回数を月に一回節約する距離(1.5km)に相当する。
さらに、日本の得意である発光ダイオードを用いるライトにすることも提案されている。
 
そのほか、DLRにヘッドライトを使う場合の、ヘッドライトの寿命が短縮し交換する場合のコスト、事故の減少によるよる利益など金額に換算した損益の推定もなされている。
 
世界の自動車交通先進国では、このように、定量的な社会的損益の検討がされているのに、毒にも薬もならない警察庁交通局の報告書にどれだけの税金が浪費されたか、少し乱暴だがその一端を考えてみた。
昼間点灯評価員会の外部委員19名、1回の委員会の委員手当・交通費を一人5万円として95万円、委員会を2回開いたとして・・・
 
これらのデータは、前のブログに記した資料から拾ったものである。
 

欧米諸国の昼間点灯走行の現状と警察庁交通局の報告

2007/02/26

「昼間点灯(DRL)に関する調査研究」 警察庁 2005年

警察庁のこの報告書を読んで、なんといい加減な、調査報告書と思った。役人が書いた文章を、社会的地位のある委員の役職名簿を付加して権威付けようとしているとしか思えない。
この報告書の大きな間違いは、世界的に、車の昼間点灯走行(DRL)が有効かどうかの判断の根拠となる科学的な研究が少ないと言っているが、事実かどうか、1日ほどかけてWebで調べてみた。英語の資料のうち代表的なものだけでも以下のように諸外国の政府機関の報告書が見つかった。
○合衆国運輸省 (U.S. Department of Transportation)、米国高速道路交通安全局(National Highway Traffic Safety Administration)、An Assessment of the Crash-Reducing Effectiveness of Passenger Vehicle Daytime Running Lamps. Sept.2004. 

○欧州委員会 (European commission)エネルギーと輸送のために理事会 (Directorate-general for energy and transport)、Saving Lives with Daytime Running Lights. Aug.2006。

○オーストラリア政府の輸送と地域のサーヴビス局、輸送安全局(Department of Transport and Regional Services, Australian Transport Safety Bureau)、 Review of the literature on daytime running light Oct.2003.

いずれの結論も、正確な科学的分析の信頼度の評価はまちまちだが、DRLは交通の安全に寄与しているとの結論に達している。

US.とAustraliaの報告書はいずれも警察庁報告(2005年3月)より以前のものである。EUの報告は2006年のものであるがその根拠となっているデータや文献は1990年代のものが多い。

報告書の量を見ても、警察局の8ページに対し、US, EUのそれは40~50ページのものである。これらの報告書が、分析結果だけでなく、文献リストやデータの公表、データの分析方法のマニュアルまで付加しているからである。

日本の国民は、欧米諸国に比べ、科学や統計学の理解能力が無いと政府機関の人は思っているのだろうか。

そのためか、交通の現状は、北米、西ヨーロッパ、オーストラリアで運転してみると分かるが、日本では際立ってDRLが普及していない。最近は、何処の国でも省エネが重要な社会問題となり、アメリカでは、ヘッドライトではなく、消費電力の少ない琥珀色のターンシグナル用電球をDRL用として装備する車が発売され、トヨタやホンダも標準装備にしている。にもかかわらず、日本では入手できないのも奇妙な感じがする。

写真はアメリカで売られている琥珀色電球を標準装備したDRL車の例。

 
 
 

終末期ガイドライン

2007/02/16
日本救急医学会から 「救急医療における終末期医療のあり方に関する特別委員会」がまとめたガイドラインが発表された。
これは、〔終末の定義〕と〔治療中止について患者家族の意思の確認方法〕の2部からなっている。
終末の定義については専門的知識と経験を待つ学会に任す他はない。
 
治療中止について患者家族の意思の確認方法
終末期に近づいた時どんな医療を望むか。患者側からの不安を考えてみよう。〔 〕内はガイドラインの文章の抜粋。
〔患者のリビングウィルなど有効な事前指示が存在し・・・〕
〔患者の意思が不明の場合・・・・〕
医学知識の乏しい患者が、医療上有効で明確な終末医療指示を示すことは多くの場合困難である。
そのためには、医療側から、明確な意思表示のための書式、または、意思表現方法のマニュアルを示すことが必要であろう。
 
高齢者や、回復困難な病気で長期の療養経て、患者自身が終末期医療について合理的な意思を表明している場合、医療チームは、人生の終末を迎える患者本人の尊厳や希望を最優先にして守るのが義務であって、家族の同意を義務付けることは、場合によっては、患者の意思をかなえるのに困難を引き起こすことになりかねない。
 
家族の希望を無視することは出来ないが、これは非常に複雑な感情問題であり、たとえば、医学的に終末期の定義に適合している患者の場合、医師から延命装置について、「これを外せば10分ほどでなくなりますがどうしますか」と言った話し方をされれば、それは親族にとっては一種の脅迫にもなりかねない。家族の同意が必要かどうかを含め遺族のケアアーについての検討が必要に思う。
 
延命治療を中止する場合には。
○ 患者が医学的に有効な終末医療指示書を持っている場合には、医療チームの判断でおこなう。
○ 明確な患者の意思表示がない場合、家族の同意ではなく、医療チームの医学的結論を家族に説明し、家族の医学的な状況についての理解を得たうえで、中止の決断は医療チームの判断でおこなう。
以上のような社会的合意が出来れば困難は少なくなるように思う。
 
終末期医療の先進国で既に実行されているこの種のマニュアルを調べてみると、延命治療の中断は患者自身の希望を適えることを最優先に、夫婦関係や親族、あるいは、主治医や、患者に関わった医療チームとは独立した機関の医学的判断によって行っているようだ。
家族に決断を求めることは、精神的な負担や、親族間の利害関係など、事後のさまざまな問題を引きおこす可能性を考慮すると避けるべきと思う。
 
 

フォト・梅の開花シリーズ

2007/02/15
庭には紅白一対の梅があります。
 
2月6日に一枝の花が開花してから今日でほぼ八分咲きになりました。
紅梅の方はまだつぼみが固く開花には至りません。
今日は霙交じりの雨でしたが、薄暗い中、白が映えました。
 
昨年は、紅白同時に咲き、たくさんの実が生りました。そのときの梅酒が今飲み頃になっています。
黄金色に見える背景は枯れた芝生です。

個人の尊厳、生死に関わる問題にまで踏み込む政治家、官僚の驕り

2007/02/10
最近のニュースから気になる現象。
 
子供を二以上生む女性を健全と決め付ける政治家。
 !子供を育てているシングルマザーについて彼はどう言うだろう!
 
終末期患者の明確な医療選択の希望を理解出来なくて、権力を背景にして時期尚早と言える役人。
 !時期が来るまで神様は死を待ってくれるならいいのだが!
 
社会に影響力をもつ地位にあるこれらの人物の驕りなのか、無教養なのか、いずれにしても、人間の尊厳の根源である生死についてロボット的な発想しか出来ないのかといわれても仕方ないように思う。
これは単なる言葉狩りではない、権力構造に組み込まれた人間の情けない本音のように思う。
メディアはその根源を追求し、もっと本格的に報道すべきであろう。
 

敬語にまでマニュアル

2007/02/03
文化審議会・敬語小委員会の敬語の指針が決まったとの発表があった。
敬語にまでマニュアルが必要なことであろうか、国民の多くが使用に困惑を感じていると言うが、敬語を乱用しているのは一部のビジネス(ホテルのような接客業、最近では病院の人間ドックのフロント係)、われわれを皇室の方々に使うような敬語でくすぐってくれる。
役人も、不祥事を起こしたとき、最上級の敬語を使って監督官庁の組織を表現し、その御指導に従ったと言うような言い訳をする。
敬語は、対人関係の間で相手の人格を理解した上で使われるもので、役所や、会社のような組織に対して使われるのには違和感を感ずる。
 
どんな人が審議会委員かを調べてみた。名簿には、名前と職業だけしか載せてない。職業や役職名からある程度社会的にどの分野に関する見識があるかを推察できるが、数名の大学教授に関しては研究分野が分からない。委員の中に、他言語の文化に精通し、他言語の社会に溶け込んで文化的貢献をした経歴の持ち主はいるのだろうか。国語だからと言って日本文化だけに浸かっている人の意見だけでいいのだろうか。
 
英語は「敬語が無い野蛮な言語だ」とどこかで聞いたことがあるが、それが正しいかどうかは別として、機械的に、マニュアルに従った敬語を使うのが文化的な美しい言語であろうか。教育の場面ではそれよりも、日常英語を使う人口は世界的に見て小数であるのにもかかわらず、グローバルに通用している現実を考えるべきと思う。
 
言語は生き物である。にもかかわらず、国語の問題になると国語学者や、国語教育関係者のコメントをだけを載せるといったメディアも、固定観念に陥っているとしか思えない。現在、科学、芸術、そのほかの文化的分野で、外国でその国の言語を使い、その国の社会組織に溶け込んで評価を受けている日本人が多くいる。国語審議会はその人たちの意見を聞いてみたらどうだろう。
 
1970年頃の経験だが、敗戦後まもなく(1950年代)にアメリカにわたった日本人の家庭に呼ばれたとき、そこで話されている日本画が正しい日本語のように感じられた。しかし、それは10年以上凍結された古い日本語であっただけのことであった。当時、ある人が、十数年ぶりに日本に帰り、東京でタクシーに乗ったら運転手に、「貴方の日本語はずいぶん”錆びて”いるが何処から来たのか」と言われたと言う話を聞いたこともある。
 
ともあれ、国語学者や、日本で言語を使う職業人だけで作ったマニュアルが、現実の社会で生きるものになるかは疑問である。

政治家の失言 ジョークになる失言とならない失言

2007/02/01
今日もまだ柳沢氏の話題で持ちきりだ。
この件を見て二つの失言を連想する。
 
柳沢氏の場合、戦前の社会ならいざ知らず、現代の日本人の一般的概念として、女性を子供を生む機械だという発想はないと思う。
このような場合、柳沢氏が、支援者の前で、つい気が緩んで不用意な発言をしたと思ったら、抜き差しならなくなるような言い訳で取り繕はないで、最初の失言をジョークに掏り替える話術があって、落しどころに、安心して子供が生める社会にするのが私の使命ですと云うような修復をする余裕が無かったのかが不思議に思う。
確かに、我々は言葉尻に固執して、ジョークが通じない社会なので、難しいかも知れないが、政治家としての資質に欠けていると思わざるを得ない。殆どの政治家が、重要な場面では原稿を棒読みすることが理解できるように思う。
 
アメリカの次期大統領候補として有力であった、ジョン・ケリー氏がどこかの大学で、学生の前で、勉強しなければ兵隊として「イラクに送られるぞ」と言った、励ましとも云える言葉を発して政治生命を絶たれた。このことは、アメリカの徴兵制度では周知の事実であり、あまりにも現実のことで、ジョークや例え話に掏り替えることの出来ない深刻な問題であったからと思う。前大統領のクリントンや、現大統領ブッシュも、ベトナム戦争末期に徴兵適齢期で、何れも合法的に徴兵を免れる能力を持っていた。ケリーはベトナム戦争に従軍したので、そのことから発言に油断があったかもしれない。
 
以上は、軽率な発言を重大事件にしてしまったことと、重大なことを軽く見た誤りの例とはいえないだろうか。

定年世代の飛行機操縦

2007/01/23
今日アメリカのニューヨーク州、カナダ国境に近い町に住む友人から月遅れの新年のメールが来た。
 
軽飛行機の単独飛行のレッスンを完了し、メイン州に数日間初飛行の旅行をする計画をしていると言ってきた。
60の手習いで飛行機操縦、日本で定年の普通のサラリーマンが考えることだろうか。平年ならば、この地方は激しい吹雪の荒れる季節だが、今年は暖冬で穏やかのようだ。それにしても、変わりやすい山岳地帯の天候、アメリカ人の冒険心と乱暴な遊び心には感心する。 幸運を!
 
彼は現在、ニューヨーク州立大学プラッツバーグ分校の物理学の教授をしている、65歳前後、日本では定年の年齢である。
今まで住んでいた市街地の自宅を売って、現在近くの郊外に新しい住宅を建築中で、順調に行けば4~5月に引っ越すと知らせてきた。
 
ニューヨーク州職員は定年が無い、まだリタイアーはしていない様だ。彼とは、彼がPhD.の学生時代からの友人である。