新しい風を吹き込んだ益川博士 ノーベル賞授賞式
今朝のテレビ対談で言っていた言葉が耳に残った。これは物理学の基本法則の一つであり、それが頭にあっての発言か。短い話の流れの中でのフレーズでありその真意はわからないが彼の政治活動の体験から出た言葉として伝わってきた。気になったので彼の教育歴を見てみたが自然科学系の教育歴は無いようだ。思わず連想されるのが金融ビッグバン:イギリスの元首相マーガレット・サッチャーの政策で使われた言葉、彼女の教育歴は化学、研究者としての経歴も持っていた。「ビッグバン」宇宙創成に関する理論。
エネルギー:日常用語ではエネルギーそのものが価値のあるものとして使われていて、エネルギーを消費すると云う言葉も当たり前に使われている。しかし、物理学の概念としてのエネルギーは増えも減りもしない一定不変の量として理解されている。エネルギーが宇宙を動かす能力があるかどうかはエネルギーの属性、エントロピーで表される。云いかえれば、エネルギーには価値のあるエネルギーと捨てなければならないエネルギーとがある。エネルギーば使うほどに価値のないエネルギーに変わる、これがエネルギーを消費すると云う概念の本当の意味である。消すことができない不要になったエネルギーは、その捨て場がない限り持続的な活動が続かないと云うのが自然界の普遍的原理である。これは日常生活での塵処理と同じ理屈である。
渡辺議員の発想は「政治ビッグバン」となるか。
久しぶりの東京
定年してから東京に用事が無くなり、海外の帰りに成田に着いたとき一泊するくらいでゆっくりしたことはなかった。今週末かから4泊の予定で出かけることにした。主な目的はフェルメール展とピカソ展である。どちらも14日日曜日が最終日なので混み合うことが予測されるがやむを得ない。
フェルメールは、今までにアメリカとヨーロッパの主な美術館で合わせて20点ほど見てきたが今回は珍しいものが展示されていて楽しみにしている。ゆっくり見られれば良いが、そのために2日間のチャンスを得るために土曜日から出かけることにした。
また、16日火曜日には恵比寿ガーデンプレイスという場所で Patricia Field の Style Show と Joel Robuchonのレストラン・ブフェーに招待を受けたので、その夜も宿泊することにした。1980年代、渋谷ではタクシー乗車に並ぶ時代、よく恵比寿で降りてタクシーを拾ったが、その頃の恵比寿のイメージは、赤ちょうちんの駅前商店街と言った記憶がある。浦島太郎になった気分を味わえるかも?そんなわけで、月曜日は公立美術館は休みなのでホテルでゆっくりしようと思っている。雪の季節でもあり余裕をもって出かけることにした。
最近朝日新聞で高齢者運転についての「耕論」11月23日13版の記事を受けて声の欄で高齢者からの二つの投書を見た。問題点は、①高齢者の運転事故率は他の年齢層に比べて多くない。②75歳という年齢だけで運転不適格者と云う分類をすることの人権無視。そして③高齢者マークを表示しないと無事故・無違反でも犯罪者扱いにする。この三点の不合理に要約できると思う。
この法律の根拠となっている”高齢者は事故率が高く、社会に重大な危害を与える”、が科学的なデータ分析ではその証拠がないことは警察庁自身の国際機関OECDに報告しているデータベースでも明らかに示されている。高齢者運転が危険と云うのは思い込みや迷信であるという報告はすでに20年も前にヨーロッパの研究機関により発表されている。
先の「耕論」で特集の見出しには、警察庁のデータベースからと思われる高齢者人口10万人当たりの事故当事者の死者率がグラフに示されていた。これだけを見ると確かに高齢者は死者が多いが、同様の統計から高齢者の交通事故率を調べると、この場合は10年以上の運転経験があると見られる年齢層と、高齢者の事故率はほとんど変わらない。事故死者率と事故率との違いの原因は明らかにされていて、高齢者は、運転中であろうと、同乗者であろうと同じ規模の事故の場合、死亡につながる割合が他の若年層に比べて3倍から4倍大きいことである。この効果含めて社会的に見ると、高齢者は交通被害者であって加害者としての比率は他の年齢層に比べて小さいと云える。その他、外国の研究論文では、高齢者の死亡事故の特徴や、運転環境の違い、軽両車種か重量車種の違い、道路構造や信号方式など、様々な要因を考慮した分析がなされている。警察庁がこれらの結果を完全に無視して、高齢者運転が危険であると思わせたり、高齢者が起こした目立やすい事故の例をことさらに取り上げてキャンペーする知性のなさが不可解である。
想像してみてください、一度でも事故の加害者となった運転者は、その程度に応じ、死亡事故を起こした運転者は”骸骨”マーク、傷害事故は”骨折”マーク、危険運転は”赤色”マークを強制的に表示させる。こんな法規が日本で支持されると思いますか? それと同じことが落ち葉マークの強制ではないでしょうか。高齢でない方も、いずれ高齢者になると云う事を合わせて自分のこととして想像してみてください。
警察庁は高齢者を守るためと説明していることは知っているが、本当にそれだったら、高齢者マークの車に対し、運転妨害など違反行為をした他の運転者の罰則を法規で強化するのが自然でしよう。当たり屋が高齢者の車を狙って追突させた時、警察は高齢者の運転ミスとして処理するつもりだとは思いたくないが。
鴨の飛来
自動車にもドライブレコーダー(EDR: Event Data Recorder)を
飲酒運転、異常な危険運転などを未然に防止する抑止力として科学技術の活用努力が足りないように思う。
一つの方法として、自動車に飛行機のフライトレコーダーに相当するいわゆるEDRの装備を義務付けてはどうか。ただし国土交通省の案のような事故が起こった時の記録ではなく(EDRの技術要件のまとめ:http://www.mlit.go.jp/kisha/kisha07/09/090221/03.pdf)、常時運転状況、特に前後左右の高感度加速度計、ステアリング、ブレーキの操作など運転状況を検出するセンサーを設置してそのデータからコンピュータプログラムにより危険運転状態を判断し警告を発したり、極端な場合は運転の継続を停止させる装置のことである。
特に、酒酔い運転は、ニュースになった警視庁警視の当て逃げ酒酔い運転のように、運転者に対する教育や、厳罰ではなくならないことは明らかで、呼気アルコール検出して運転を開始させない装置などの開発が進んでいるようだが、それよりも、危険運転状態を判断するEDRの開発と設置を義務付けた方が飲酒運転ばかりでなく危険運転全般に適用できる。すでに自動車メーカーでは開発が進んでいるかとも思うが現在の技術では可能であろう。
先の警視の泥酔運転も、おそらくその車の後を付けていれば危険な状態が分かるような状況であったであろうと思われる。麻薬はもちろん、治療中の医薬品、あるいは軽度の一時的な脳梗塞や心臓発作でも同じように不自然な車のコントロール状態が現れるはずで、運転者ばかりでなく周囲の車にも分かるような警告ができれば重大事故を未然に防ぐ可能性は大きくなると思う。
この事件は、運転者に酒を提供した者まで検挙する、憲法の人権上疑問があるような法規を作っても役に立たない見本のようなもので。日高幸二警視一緒に酒を飲んだ同僚もいたようだが、この理不尽な法規の矛盾を実感し、どう言い訳をしようか戦々恐々としているのが実情ではなかろうか。
この種の研究の一例としてNHTSA(National Highway Traffic Safety Administration)の Vehicle Safety Research “Crash Avoidance Research Program”でその趣旨を見ることができる。http://www.nhtsa.gov/portal/site/nhtsa/template.MAXIMIZE/menuitem.346aef7b3d1b54c5cb6aab30343c44cc/?javax.portlet.tpst=4670b93a0b088a006bc1d6b760008a0c_ws_MX&javax.portlet.prp_4670b93a0b088a006bc1d6b760008a0c_viewID=detail_view&itemID=5e8fb99f6623e010VgnVCM1000002c567798RCRD&overrideViewName=Article
警察幹部は運転免許証を返納する勇気を
もしこんな見出しが新聞に出たら警察関係者はどう思うだろう。警視庁警視日高幸二の飲酒運転当て逃げ事件のニュース、運転手つきの公用車を使える局長クラスの幹部には、おそらくこんな思いが浮かぶ事件である。
これは個人犯罪であってメディア的に目立つだけで警察組織とは関係ない様に見える。事件を起こした彼は、交通課長のとき飲酒禁止キャンペーンの責任者だあったようだ。彼が、交通行政に関し科学的な知識も判断力もな無かったが、たまたま交通課長に任命され、権力と組織を背景にして、はでな飲酒運転撲滅キャンペーンをしただけであったと云うことか。自分のことなると泥酔状態の判断も出来ないばかりか、2時間も仮眠すれば酔いがさめるとの非常識な言い訳、おそらく、一般人と違い免許更新の講習も受けていない無知からだろうか。
「高齢者は免許返納の勇気を」 確か警視庁のキャンペーンだったと記憶するが、以前のブログで何度も資料を示して書いたように、警視庁をはじめ、自動車先進国の統計学的に検証された分析では、高齢者の運転が他の年齢層、特に若年層に比べて際立って危険ではないことが確認されている。にもかかわらずこんなキャンペーンを打つのは科学的思考力がないのか、それとも、管轄区内の年間事故数を昨年より減らす警察同士の競争に勝つためには運転者人口を減らすことであり、その方法として、目立やすい高齢者事故の事例を取り上げて高齢者から免許を取り上げるのが早道と云わざるを得ない無責任な行政とみえる。
ヨーロッパでは自転車交通が盛んと言う人がいるが、オランダや、ドイツで車を運転中見かけた経験では、日本のように高齢者が自転車に乗って買い物など、生活上必要な交通手段としているのは見かけないように思う。警察は、高齢者の歩行中や自転車での転倒などが原因の自傷事故の統計を取っていないが、高齢者は転倒が原因で死亡や骨折につながったり、寝たきりになることが医学的に知られており、高齢者にとってより安全な交通手段である自動車交通から締め出す様な非科学的、無責任な交通行政の一面をあわせて考えると、上記のような人物を交通課長にしたことは組織的な欠陥の一端であるようにも思われる。
交通行政の幹部職員は、交通工学、人間行動学、医学、統計学などで学位を持っている者を最低の資格としてはどうか。
伊藤清 博士がお亡くなりになった記事に接して
伊藤の公式で有名で、数学や理論物理学ばかりではなく、科学技術の応用や、金融工学など、社会現象の予測利理論の基礎をなす確率微分方程式を完成させた数学者である。後にマイロン・ショールズ等により完成した、ノーベル経済学賞の評価の基となった金融工学のブラックショールズ方程式はこの伊藤の理論が基礎となっている。おりしも世界を巻き込んだ金融危機の真っただ中の今、亡くなったこととは何の関連もないことだが何らかの思いを禁じえないことも確かである。
と云うのも、現在進行している経済危機が、アメリカで発達したデリバティブを利用した投資会社にその端を発していると云う人が多い、事実、ノーベル経済学賞を受けたマートンとショールズが経営陣であった投資会社LTCM(Long Term Capital Maneagement)1998年に破堤し倒産したことも思い出さざるを得ない。倒産の引き金はロシアの経済危機と云う数学では予測できなかった事件が原因になったようだ。1970年代アメリカで物理学や統計学の学位を持った人たちがウォール街に入り金融工学を発展させたが、この科学的な手法が悪いのではなく、膨大な資金を動かす決定権を持つ最高経営者が本当の意味の予測の理論を知らないことによる誤りのように思う。
ここで予測と云うことについて考えてみよう。自然科学の予測とは、知られている法則に基づき、過去に起きた事実と現在得られる最大限のデータにより統計処理をして、信頼の度合いを数値で評価しながら予測するものである。100%信頼できる予測は先ず不可能だし、数学的に予測不可能として知られている物事もある。科学技術とは適切な予測の技術ともいえる。どんな場合でも、自然科学では過去の間違いによる失敗や事故を知らないで再び同様の誤りを繰り返すことは許されない。
おりしも今、ワシントンDCで世界二十ヶ国の経済サミットが行われているが、現在の政治や社会現象を見ると、過去に起こした誤りを繰り返し、だれも責任を取らなくても当たり前のように見える。現在の社会では、社会の指導者層には、複雑で変化の激しい国際情勢の中で、適切な予測に基づく決定を迅速に行うことが必要であり、個人の能力を超える場合が多く、科学的な能力を持った人材の組織によるバックアップが不可欠であるように思う。
驚いた政治家の感覚
先ほどのニュースで、定額支給に関し高額所得者は辞退してはとの意見に対し、一部の政治家や役人から、住民から辞退をするとの誓約書を取るのが難しいとの反対意見が出ているとの話。政治家か役人かは知らないが、どこまで能天気で次元の違う別世界の人間か。辞退の誓約書を取らないと窓口となる地方公務員がねこばば事件でも起し、また官僚のスキャンダルでたたかれる恐れを心配しているのであろうか。
もともと、支給と云う言葉自体がおかしい、昨年集めた税金から、今年起こった予想外の金融事件で皆に災難が降りかかったので税金の一部を割り戻すと云うのが真相だろう。
いったん集めた税金は、昔の王侯貴族とおなじように政治家は自分のものだとでも言うのであろうか、それとも神から頂いた恵みを支給する代行者と云うのあろうか。その恵みを庶民が辞退するとは恐れ多いとでも思っているのであろうか。
この市では高齢者に年間何千円分かのバスチケットが支給されているが取りに行ったことがない、もちろん辞退の誓約書を求められてもいない。金券ショップではこの種のチケットが売られていると聞くが、まさか市役所から割り引いて売られているとは考えたくない。だが、まったく荒唐無稽のおとぎ話と100%思えないのも事実である、同種の役所の流用事件が会計検査院で指摘されていることも事実である。
欧米文化とアフリカ系の人たち
これは、しっかりしたデータに基づく話ではないが、旅行していて気が付くことは、美術館、音楽会、文化遺産の建造物や庭園などのいわゆる文化的な観光施設を訪れているアフリカ系の人々は極端に少ないことである。特にアメリカでは人口比から云ってその少なさは不自然な気がする。音楽では、ジャズを代表とする音楽文化が世界中に影響を強く与えているのに。アフリカ系の人のヨーロッパ系の古典音楽界で活躍している人や、音楽教育を受けている若い人たちが、東洋系の人たちに比べて極度に少ないように見える。
ノーベル賞受賞者数で見ても、アメリカ国籍ならばアメリカ人にカウントされるのではっきりは分からないが、東洋系のアメリカ人に比べ、アフリカ系の人は極端に少ないように思われる。これはどうしてだろうか? 前から気にかかっている。
上の写真は、2007年夏に訪れたアメリカバモント州、マルボーロ音楽祭での中間休憩時のスナップで、左から聴衆、真ん中の2枚はアーティストとその関係者、4枚目は二人の音楽監督 リチャード グーディ と 内田光子さんである(Richard Doode & Mitsuko Uchida, Artistic Direkutors)。聴衆はヨーロッパ系であり、アーティストには東洋系の人が目立つ。この情景はほかの音楽会でもほぼ同じである。