高齢者を自動車運転から追い出すことによる交通死者の増加
Google検索で表題のキーワードで検索してみました。結果は、検索リストの5番目に ”テーマ「高齢者運転」のブログ記事一覧 DriveSafely /ウエブリブログ” との見出しで、私の交通問題に特化したブログの73タイトルがキャッシュされていました。(2010年11月12日取得)
このページへのリンクだけに含まれているキーワード: 高齢者を自動車運転から追い出すことによる交通事故死者の増加。 URLは
http://spaceglow.at.webry.info/theme/93257adb04.html
です。
この中で、テーマを最も適格に示すブログ記事は 「EU諸国における高齢者運転の安全策」 とタイトルを付けた http://spaceglow.at.webry.info/201003/article_3.html
2010/03/06です。
顕著な例は、高齢者運転免許の厳格なフィンランドと、終身免許制のスウェーデンの交通死者率を比較すると、フィンランドの方が多い、これは国の違いによる交通情勢や経済力の違いによる原因であるとの反論もあるが、オーストラリアの比較では、免許条件に年齢区別がないビクトリア州と、特別プログラムを持つ他の州との間でも同様の結果が見られるとの論文があります。このことは、高齢者の免許条件を厳しくし、自動車交通から追い出すと歩行者が増え交通死者が増えることの実例と言えます。
高齢者に限らず、本当に運転の的確性を欠く人がいることは確かで、いかにして人権を侵すことがなく、危険運転者を分別するかが先進国の課題であり、まだ効果のあるシステムが確立されていないのが世界の実情であると思います。
高齢者自動車運転研究の歴史的経過
OECD/ECMT-欧州運輸大臣会議の報告 高齢者道路使用者の安全レポートの概要
AGING AND TRANSPORT: Chapter 3, SAFETY OF OLDER ROAD USERS. Nov.2006,
高齢者運転問題の科学的または社会問題としての初期段階の研究は1960年後半から1970前半で、当時の研究の要点は、加齢による運転欠陥に注目することにあり、一般の理解は老齢者の運転は危険であるとの見方であった。道路システムの構造は運転者の管理のためのもので、事故を防止する為のものではなかった。その結果、危険とされた高齢者の運転を禁止するような方法での安全処置が提案されていた。
1980年代および90年代の研究は、高齢者の事故の原因の正しい理解を得るために疫学的な分析が主流となった。 この結果は重大事故の高齢者の関与が過剰見積もりであったことを示した。 むしろ、高齢層は衝突の頻度の少ない安全運転層と位置づけられた。
「高齢運転者」の社会的な常識は再考され、焦点は安全な交通方法に移った。 運転者よりもむしろ、予防手段として、道路および輸送システム、特に道路設計の安全性の提案に重点が置かれるようになった。
老齢学の研究では、老齢の影響は画一的な加齢の関係より、個人差が大きいことが繰り返し得られた。臨床経験では安全危惧に関する主要な原因として、年齢区分よりもむしろ、高齢者の医学的な特定の区分、アルツハイマーのタイプの痴呆、特に痴呆に罹っている高齢者は最も重要で、危険度が高い小群として識別された、90年代の研究テーマは危険度が高い小群に焦点を合わせることに集中した。
以上がわたくしなりに纏めたその要旨である。
残念ながら、日本の交通行政は、いまだに高齢者運転が危険だとする1970年代前半の知識レベルと云わざるを得ない。さすがに、今年の交通安全週間には、高齢者交通事故の激増と言うキャンペーンは自粛したようだが、日本政府はOECD/ECMTの共同交通研究センターに加盟し、データを共有しているので、道路管理機関は、国際的に認められている科学的な分析結果は承知しているはずである。
このような誤った交通行政にも関わらず、過去のブログに書いてきたように、日本の運転者は世界の先進国の中で最も事故が少ない統計結果を実現している。
自動車学校で高齢者に講習を義務付ける、これは、誤った根拠による道路行政で、高齢者にいわれの無い社会的不利を強いていると云えよう。高齢者の3年毎の免許切り替え制度は悪いことではなく、国際的にも理解されると思うがこれは医学的な行為であり、それには、必要な医学教育と、国家試験に合格した認定員制度を確立することが急務であろう。
この文章は、中高年・シニア世代交流サイト い~悠々.COMに投稿したものを補足編集したものである。
自動車保険会社も高齢者ビジネスか? 根拠のない談合は許されない
新聞報道によると、自動車保険会社が高齢者から割増料金を取ることを考えているとのこと。
日本の警察庁が収集している運転事故データベースでは、高齢者の運転責任事故が特別多い結果は出ていない。
下の図は、自動車安全運転センター「安全運転に必要な技能等に関する調査研究(Ⅲ)」平成21年3月のデータを基礎に描いたものである[1]。(画像をクリックすると拡大できます)
これで明らかのように、高齢運転者の責任ある事故率が大きいとはいえない。この事実は、日本ばかりでなく、OECDに加盟している世界先進各国の統計でも同様である。
もちろん、保険会社の補償額は道交法の責任事故とは直接関係しないが、アメリカのデータベースでは高齢者が重大事故を起こす率はさらに少ないとなっている。
科学的な統計資料を公表した上でなければ、不当な保険会社間の談合とい云える、公正取引委員会は厳しく監視してほしい。
警察庁も、自らのデータベースを欺くような ”高齢運転が社会的に危害を与えている” と云う根拠のない”うそ”を流して高齢ビジネスに加担するのをやめるべきである。
日本は自動車交通で最も安全な国のトップ6 OECD加盟国2010プレスリリースより
上のグラフはOECDの9月15日発表のIRTADフォーラムのPress Releaseよりコピーしたものである。(クリックで拡大できます)
この国際交通フォーラムの発表によると、日本の人口10万人当たりの交通事故死者の割合は、科学的根拠に基づく安全交通政策の発達したヨーロッパ諸国の最も安全な国々と同等のレベルにあることを示している。
科学的データに基づく合理的な交通行政を続けているイギリスは最も効果的な交通政策を実現している国であるが、日本の交通死者率はイギリスよりわずか数%大きいだけである。私はこれらのヨーロッパ各国の内、イギリス、スウェーデン、オランダ、ドイツで、それぞれ最低でも1000km以上の運転経験があるが当然との実感を持つ。
もう一つの交通事故指標、10億_台数_走行距離(Per Billion Vehicle Kilometers Travelled)当たりの死者数を算出している国の数値もこのグラフに表示されているが、これで見ると、日本は、イギリス、スウェーデンに比べると1.6倍ほどであり、自動車交通先進国での世界平均的レベルと云えなくもない。自動車交通後進国の東欧やアジア、南米などでは、まだこのデータを報告している国は少ないが、発表されている値は非常に大きく、これら諸国とは違い、日本は明らかに先進国型といえる。
この二つの指標の違いは、前者が、社会健康リスクのうちの交通障害によるものを表していると見られるのに対し、後者は、自動車移動のリスクとみることができる。
日本では、平均的な社会生活において道路交通におけるリスクはヨーロッパ先進国と同等であるが、自動車運転による移動リスクはまだ改善の余地があると分析できる。
自動車運転移動リスクが大きいことは、①車両の機械的安全性が悪いか、②運転者の技術や、経験や判断力が劣っているか、③道路の安全構造が悪いか、とに分けてみると、①は明らかに、日本の車の技術水準や管理規制から無い、②は交通死者比率か少ないことかららも考えにくい、また、私の少ない海外運転経験での実感としてもあり得ない、そうすると③の道路の安全構造と、信号、標識など運転者に必要な安全情報の表示に問題があると見ざるを得ない。
欧米先進国に無い、日本の道路標識の特徴は、漠然とした注意標識が多く、運転者にとって必要な情報が少ないことである。たとえば、急なカーブ標識で、”急カーブ注意”と云う標識ではなく、カーブを通過する時の推奨速度”40km/h”などと書かれている場合、運転情報としてどちらが意味があるか明らかである。とにかく、目障りな、交通安全協会の旗や、本日の死傷者数など、運転者がいらいらし疲れさせる標識が多すぎる。交通行政に関わる管理者は、日常運転を業務としている人々の意見や、欧米の、無駄な標識を規制し、すっきりした道路を自分で単独運転し、安全運転には何が必要か体験した交通行政をしてほしい。
とにかく、安全関連の既得予算があるからと、各組織の活動宣伝の様な標識をむやみに立てるのではなく、科学的証拠に基づいた安全情報、運転に役立つ標識のみに整理をすることが事故の更なる減少に役立つと思う。
再度、事故統計から見た日本の運転者の水準は世界一流であり、いつまでも”交通戦争”とか、”日本はマナーが悪い”と云ったお決まりの文句は、交通の管理、行政当局者の”迷信”であることに気付いてほしい。
警察車両の80パーセンタイル走行速度は規制速度の20km/h超過 山陽自動車道で
下のグラフは2010年10月7日山陽自動車道、本郷IC-福山西IC間で約8分間、警察車両を先頭に追跡して走行した時の速度の毎秒計測値から描いたものです。(画像をクリックすると拡大できます)
この道路の規制速度は80km/hですが、警察車両が走行した速度のヒストグラムを見ると最多走行速度は93~101km/hで、明らかに道路交通法違反です。屋根の赤色回転灯はついていましたが、サイレンや、車両前後のフラッシングライトは見なかったので緊急出動では無かったと思います。もちろん、パトカーの前方に高速走行の車両も見られず、パトカーがICで消えるまで事故現場も見かけませんでした。
速度計測値の累積頻度グラフからの推定80(85)パーセンタイル速度は100km/h強です。これで見るとおそらく、100km/hで走行することを意識していたと思われます。誤って高速運転をしたのではなく、意図しての走行と見られ確信的な速度違反です。
ここでは、パトカーの運転手を非難する目的ではなく、規制速度がいかに不合理で実勢速度との乖離があるかの証拠としたいと思って公表するものです。
仮想実験ですが、もしこのパトカーを追い越して120km/hで走行し、速度違反で検挙されたとき、速度超過の罰金は30キロでしょうかそれとも10キロ/時でしょうか?、こんな疑問にもならない思いがあたまをよぎります。
警察庁は、規制速度を実勢速度に改定することを発表していますが、いまだにその法制化を見ません。おそらく言い訳は、規制速度を上げればますます高速運転者が増え事故の増加につながると云うことでしょうが、運転者は道路の状況を見て走行していて、速度規制ポストと、実勢速度とはあまり関係がないことを示す研究論文があります。
私が知る限り、科学的統計に基づく日本および自動車交通先進国のデータ(OECD加盟国)では、日本は世界で最も運転事故率の少ない安全な国のグループであることを示しています。このような水準の日本の運転者の大多数を、犯罪予備軍のように扱う警察庁は科学的根拠ではなく”迷信”にとらわれているとしか思われません。
日本の道路利用者の80%が犯罪者になりかねない法規、この責任は運転者、規制当局どちらにあるのでしょうか。欧米諸国では、実勢速度の85パーセンタイル速度を規制速度の根拠にしています。また、スピードカメラで撮影し、規制速度の10キロメートル超過以上で罰金を科しているようです、この超過幅は、速度計測機の誤差範囲以を考えての合理的処置と思われます。
以上、もう少し内容を整理して、行政の意見・要望欄に投稿しようと思っていますが、コメントをお願いします。
なお、この計測データは、GPSLogger Dongle GT-730FLSで記録したものですが、SonyGPS C-53、および半導体で慣性力を測る加速度計のデータと比較し大きな違いがないことを確かめています。
私が調べた交通統計のデータベースの文献リストなどは、交通に特化した、以下の私の他のブログに記載しています。
常にデータを求める文化を育てることが不可欠だ。”
国際シンポジウム「日本の保険システムを再考する」でイギリス医学会誌ランセットの編集長リチャード・ホーン氏の発言の中に(朝日新聞)
”科学に基づく政策を取るには、政策を決める人たちが根拠の重要性を理解し、常にデータを求める文化を育てることが不可欠だ。”
この指摘は、日本の政府行政の根拠で一番欠如している点であると思う。日本の政治家、官僚そしてメディアまで、議論の根拠を提示さず、言葉の表現上や発言者の社会的地位、知名度などの ”尤もらしさ” で勝負しているように思う。
最近に見られる、利害の反した衝突が多い国際社会では、一国の言語での”うまい表現”や、権威などは何の根拠にもならない。国際的な多くの研究者が引用している根拠のあるデータを示した議論が重要であることが見えてきている。
残念ながら現実は、大国の軍事力や経済力のごり押しが無いとは言えないようだが!
敬老の日に想う
今から30年ほど前、1980年代に纏められた将来の高齢化社会に関する総合的な本 ”Productive Aging: Enhancing Vitality in Later Life” 日本語訳「プロダクティブ・エイジング」岡本祐三、編者:ロバートバトラー他を読んで。
1974年「老後はなぜ悲劇か」”Why Survive? Being Old in America” の出版以後、アメリカでは制度的に大きな変化が生じ、国立老年研究所での研究の主題を「プロダクティブ・エイジング」に向けられるようになったと云う。年齢だけを理由にした職業選択差別の違法性が認識され始め、たとえばニューヨーク州政府職員の定年制は無いと聞く,私の知人は78歳、ニューヨーク州立大学の現職教授である。このような活動は、1981年以降、世界規模の医学研究者を含めたセミナーが毎年行われるようになり、また国連高齢者問題会議も開かれるようになった(1982年ウイーン)。
このような国際的な研究者によるセミナーが30年近くの歴史を持つことを私はこの本で初めて知った。
この本は現在アメリカ、日本とも絶版になっていて、中古本は出版当時の価格の3倍ほどで流通していて入手困難である。しかし、メディアや、高齢者問題に関係する機関関係者、官僚には読んでもらいたい。
日本の高齢者人口は、すでにこの本が編纂された当時の将来予測に到達し,世界で最も高齢化が進んでいる日本であるが、現状を見ると、政治、マスメディアや官僚など社会の指導者層が、高齢者問題に関し、この様な国際レベルの総合的研究の成果を認識しているとはとても思えない現状を実感させられる。30年前の社会通念と変わらない、高齢者を「依存」「介護」「社会コスト」と云った類型的な社会の負担としか考えていないように見られる。高齢者の能力や人権について思いのおよばない思考力の欠如はどこから来るのであろうか。世界の研究の状況や提言を知らない不勉強による知的能力の欠如としか思えない。
その証拠の一つとして、今日は「敬老の日」だが、地方の行政機関では、税金の支出で高齢者に食事を提供したり、はなはだしいのは市長が描いた”書画”など個人の慰みものを税金を使って送りつける、高齢者なら十把一絡げで感激すると思っている権威主義。どこかタガが外れている。
高齢者は、固定資産から収入を得たり利殖を望むことの出来ない今日の社会情勢にもかかわらず、財産を所有しているだけで、毎年高額な固定資産税を強いられている、地方税の高額負担者である。
行政が本当の意味の”敬老”行事を援助するつもりなら、その行事は高齢者自身がイニシアチブを持つ企画にすべきであり、高齢者の社会参画を求め、高齢者の知的能力を発揮できるような組織にするべきである。現在の日本の高齢者は、敗戦による社会資本ゼロの遺産を受け継いで、高度成長期の日本の経済発展に寄与した世代であり、国際的な競争社会の外国社会で活躍し、日本の経済力ばかりでなく文化的な水準を外国に知らせた国際人もたくさんいて、それらの人たちの提言や、助言は現在の日本のおかれた状況に貢献できるはずである。
極端な言い方をすれば、高齢者は自己制御の不能な若い世代のコントロールで生きる存在ではない。朝日新聞の声の欄を読んでもわかるが、70歳以上の高齢者の投稿が圧倒的に多く、しかもその内容は、マスメディアの画一的で時流におもねる論調ではなく、独自の人生の体験から生まれた、証拠に基づく建設的なものが多い。
今までに何度も書いているように、高齢者の人権無視の典型は、警視庁の自動車運転免許制度の極端な例せある高齢者マークの強制、「高齢者運転が社会に危害を与えている」と云う、日本をはじめ先進国のどんな統計的根拠にも見られない「うそ」を根拠に、高齢者の交通権をコントロールすることの人権違反に気がつかない知的レベルの低さ。
警察庁が指摘する間違いは、現実の社会では、高齢者運転者と壮年者とは運転の実情が異なるにもかかわらず、同じ運転条件の仮想的な比較を根拠にしていることである。この場合、当然高齢者は身体的なハンデキャップのため運転の欠陥が見られるこは事実である。だが、それだから高齢者運転が社会に異常な危害を与えていることにはならない。この証拠は、以前のブログで何回も証拠のデーターソースを挙げて書いてきた統計データに表れている。高齢者は、自身の生活の質の維持のために自制心を働かせて、より安全な道路状況や、天候、昼夜などの条件を選んで運転している。このことが、高齢者層が他の年齢層に比べて社会的に責任の重い運転事故率が大きくないばかりかむしろ小さいことを統計的に実証している。
このような実際の運転状況を考慮しないで、年齢区分により、有料で、自動車学校の旧式なゲームセンターにあるような機器での検査を義務付け、若者のデータと比較し運転の欠陥を指摘することには何の効果的な価値も無い。有職期間を含め40年50年大きな責任事故もなく経験を積んだ運転者は尊敬されることこそあれ、犯罪予備軍のように扱われる証拠はない暴挙である。天下り企業の自動車学校、若者の減少による経営保護に高齢者ビジネスを加えたと云われても仕方ないだろう。
日本にも、時期を失した感はあるが、政府の各省庁の利害から独立し、世界の機関で引用されるような研究論文を発表できるレベルの総合的な高齢者問題研究所が必要であろう。
衆議院各種委員会委員恒例の夏季海外視察
発表によると、70名近くの関連省庁関連委員の海外出張の行き先と人数が表になっていた。
朝日新聞の論調では、物見遊山ではないか、報告書の義務はあるか、航空機のファーストクラスは禁止になった等、末梢的な批判が書かれていたが、視察旅行の意義についてもっと本質的なことについて考えてみよう。
原則として、明治・大正時代ならいざ知らず、現在のように各種資料や情報が充実している時代、数時間訪問する視察でなければ分からないことはまれであろう。
視察グループが、海外公館のアレンジしたスケジュールに従って、訪問先の然るべき役職の案内で通訳からの説明に、”うなづいて” 回る光景が目に浮かぶ。訪問しなくてもわかるような先方の公式レポートだけでも調査研究の上での視察であろうか。そうでなければ実際には何も分からないないと云うのが常識だろう。説明者は、自分の説明が相手にとって理解されているかどうかは手に取るように分かる。理解したように恰好つけたと思っているのは無知な本人だけである。ある出張報告書がウィキペディアの記事まる写しであったと聞いたことがあるがうなづける。
出張が必要となる条件は、少なくとも以下の要件を満たす場合のみのように思う。
① 訪問先に、自分の専門的業務経験や研究者、国際会議、国際シンポジュウムなどで関連付けられた個人的に議論できる人物がいて、出張前から連絡が取れていて、課題が確認され互いに資料交換や議論をする準備ができているか。
② 上記以外の場合、出張前に、訪問先でしか知り得ない調査内容の把握と整理ができていて、委員としての職務上調査する必要性について具体的に把握し自身での計画が出来ている場合である。
大学生の修学旅行と変わらない様な外遊は自費でやってほしい。公費を使って大名旅行ができるのは出世の証拠と思っているような連中の “さもしい” 政治家のツアー旅行、それこそ日本の恥である。
鉱山事故に見る民主化の定着した国家チリ
チリの鉱山落盤事故に思う。
連日33人の生存者の救出ニュースが世界中に報道され、それで見る限り、閉じ込められた遭難者や家族が政府の救出に期待し、楽観的な様子がうかがわれる。
これは、普通のことのように報道されているが、今日でも多くの国々では、政府や軍、基幹産業が関連する重大な事故が起きた場合、軍や警察を派遣し徹底的に報道管制を敷き、人命の救出が可能であったかを含め政治・経済的利害で決定され、事故の全容が不明のまま終息となる実例は少なくない。地下鉱物資源が基幹産業であるチリ、安定した民主主義の社会が確立した証拠と見られるがどうだろう。
チリでは、悪名高いピノチェト軍政権から平和的に1990年3月、文民政権に移管しパトリシオ・エルウィンの政権が発足し、民主主義の現代国家になってから20年余りである。
私は、ちょうど1990年の8月、韓国の南極観測基地キング・セジョンの光学研究者指導のため1ヶ月ほどサウス・シェトランド諸島のキングジョージ島に滞在した。この島にはチリ空軍の基地があり年間を通して航空路が整備されているため、各国の南極観測基地があり、空軍がその輸送サービスをしていた。チリの最南端の町プンタアレーナスよりC130で2時間ほどの距離にある南極圏内の島である。
右の写真は、1990年9月、サウス・シェトランド諸島のキングジョージ島の空軍飛行場を視察に来たパトリシオ・エルウィン大統領と空軍基地司令官一行で、右から2人目が大統領、3人目が空軍基地司令官である。基地司令官の紹介で大統領が私に握手をしてくれた直後に撮ったものである。この時、大統領の帰りの便の飛行機(C130輸送機)に便乗させてもらってプンタアレーナスに帰った。プンタアレ-ナス空港はコマーシャル空港であるが、この時完全に封鎖されていてタクシーなどは無く、空港警備の責任者にホテルまでの交通を頼んだら、出迎えに来ていたと思われる民間人を紹介しくれた。予約してあったホテルの近くで警備線が張られそこから、運転してくれた人とともに歩いてホテルに行き私のチェックインの手続きをしてくれた。このホテルに大統領が泊まることになっていたため警備が厳重であったことが後で分かった。チリ滞在中、国際線空港と、最初空軍機に便乗する時以外、大統領一行と一緒になったときも官憲によるパスポートの提示を求められたことは無い。洗練され行政の安定した国と見た。
もう一度、1994年12月から1月初めまで同様の出張をしたが、社会システムの欧米化が着実に進んで居るように見えた。出来れば再度旅行してみたい国である。
国家権力で正確な戸籍簿を管理する必要はあるだろうか。 話はそこから始まるのでは?
世界中を見ると、戸籍簿があり、政府管轄の役所で管理しているのは日本と韓国だけであると聞く。韓国の戸籍簿は、友人からの個人的情報であるが、日本統治時代に作ったもののようだ。友人の父親が韓国の戸籍制度の管理に当たった日本の高位役人であったとのこと、その友人から直接聞いたことである、その友人は現在アメリカ在住である。
もともと戸籍簿は、藩主や、王侯貴族が領民を自分の領地の財産の一部として管理するために作ったもので、近代国家になり廃止されたと理解している。どなたか正しい歴史的事実をお教えいただければ幸いです。
今、ニュースになっている人間の生物学的寿命をはるかに越えた生存記録が戸籍簿上残って居ることが判明し、戸籍簿の訂正を地方事務局の責任として追及しているニュースやコメンテーターの意見を見るが、根本的に民主主義先進国で戸籍制度そのものが必要かどうか、弊害も含めて議論されていないのが不思議である。
戸籍簿があることによる個人情報侵害の実例を挙げよう。離婚した女性が離婚前の男性の本籍地から40kmほど離れた都会で薬局を開くために銀行に融資を頼んだことがあり、離婚前の男性の本籍にある同銀行の支店長の奥さんからその事実を聞いたことがある、男性は再婚して家庭を持っている。もちろんその銀行員が守るべき個人情報を興味本位に話したので悪いのはだれかは疑問の余地はないが、もっと重大なことは、銀行が戸籍謄本を要求しそれを目的以外に流用していることの社会的犯罪行為の方が大きい。客に戸籍簿の提出を求めファイルしていること、そして、本籍地など他の支店に送り調査している事実があることである。
私の遺産相続の手続きで分かったことだが、父の口座を解約するのに戸籍謄本を要求された。しかも同一銀行の同じ町の他の支店にも口座があり、それぞれ原本を要求された。こんな無茶な要求には付き合えないので「貴行はこの講座をどう処理されるか見ていましょう、手続きに来たことだけは証明してほしい」帰ろうとしたら、窓口譲が上司に相談し、先に戸籍謄本を提出した支店で確認しますと恩に着せたような回答(管理職本人ではなく窓口を通じて)。
遺産相続で、相続権者の間で問題が起こることは事実だが、ずさんな戸籍簿があるために、高齢者に限らず、現住所も生死も分からない記録が残ていて、子供のない夫婦の場合、相続権者を探すために苦労している人が身の回りにも多数居ることも事実である。そのくせ離婚して何の関係も無くなった個人情報が民間企業で法律的守秘義務のはっきりしない銀行が、ファイル、コピーをして複数の支店に保管されていることは社会悪でしかない。
これは、国家権力で正確な戸籍簿を管理せよと云う短絡的な意見でなく、戸籍制度そのものの必要の有無を議論するのが重要であろう。
国公立大学の入学手続きに戸籍謄本は不要になって久しい、最近、運転免許証でも本籍欄を空白にするようになったのも、不必要なばかりか、社会的弊害の恐れがあることが分かったからであろう。



