世界一安全を実現した日本の自動車交通
まず結論から先に書こう。日本の自動車交通は世界一の安全を実現した。第一図
上のグラフは、OECDのRord Safety Annual Report 2011 の各国データから歩行者と自転車の事故死者を除いた自動車事故死者の人口10万人に対する算定値である。日本、イギリス、スウェーデンとは同率で日本は世界一死者数の少ない安全を実現している国であることがわかる。
ただ、残念なことは下のグラフに示すように、歩行者と自転車の利用による事故死者の全交通死者に対する割合は日本は18か国中ワースト2である。第2図
世界で最も歩行者と自転車事故率の低い国の値15%に各国が目標を定め、実現出来たとすると国別交通死者どうなるかを描いてみたのが下図である。
日本第4位であるが、統計の誤差、特に事故分類のあいまいさから、日本と北西ヨーロッパ諸国は変わりなく世界一安全であると云える。
日本で「交通弱者」と云われる歩行者と自転車の事故死者が多い原因はどこにあるのだろうか。
第一図からわかることは、日本の自動車運転者は世界の現状からみて最上級の安全性を実現していることから、歩行者や自転車に対し運転上の欠陥があるとは考えにくい。
主な原因は、日本では北西ヨーロッパに比べ、歩行や自転車の交通比率が多いのが原因と考えられる。その原因として。
① 日本では公共交通機関が発達しているため、そのアクセスまでの移動に歩行や自転車交通を利用している割合が高い。
② 義務教育学童のほとんどが歩行による通学である。
③ 高齢化社会でありながら、高齢者の運転免許保持者が先進諸国に比べ少ない。高齢者の自転車利用は欧米ではあまり見かけられない光景である。
④ 高齢者の自動車運転を援助しようとする社会合意が熟成されていない。
⑤ 歩行者に対し安全な装備の車や道路標識など安全インフラのが重要視されていない。
なお、歩行や自転車の利用をやめれば、その代りの交通手段として車の事故が増えるとの考えもあろうが、上のグラフは一律にそうなっていないことを表す。日本・オランダ・イギリス・スウェーデンでは歩行者の事故率が大幅に異なっているが車の事故率は変わらなく、最も少ない死亡率である。アメリカやニュージーランドの様な人口密度の低い国では、歩行者は少なく車の移動距離(時間)が長く、車の事故者数が多いのは自然であろう。
日本の現状を分析すれば、自動車運転者は世界で最高の安全運転者であり、これ以上の向上は、自動車の安全機能や、道路のインフラを合理的に改良すること抜きには不可能なことを示している。
私は、上記にリストされた国々での運転経験があるが、この結果は実感としてうなずける。
日本の交通政策は、科学的分析なしに、日本の運転者に運転マナーが悪いとの思い込みを植え付け、圧力をかけ、無駄な税金を浪費する組織や規制を拡張する利権となっているように見えてならない。
公共交通機関の整備だけで交通事故の死者を減らせるか? Pedestrian Safety,Uban Space and Health OECD/ITF2011 のデータベースより
http://www.oecd-ilibrary.org/transport/pedestrian-safety-urban-space-and-health_9789282103654-en
http://www.internationaltransportforum.org/Pub/pdf/11PedestrianSum.pdf
日本の歩行者交通事故死者の全交通事故死者との比率は下のグラフのように、データーのあるOECD加盟26ヶ国中25位というひどい結果である。第1図
一方、全交通事故死者の人口比は、下のグラフに見るように、日本は、ヨーロッパの最も事故率の低い国々と同等である。言い換えれば日本の自動車運転者は世界で最も安全な運転者であるといえる。第2図
どうしてこんな一見矛盾とも思える結果になっているのか。その理由を考えてみた。
そこで、全交通に対する歩行者の割合と歩行距離を調べたのが下のグラフである。この種のデータを正確に定義するシステムは確立しておらず、基準や算出年度もまちまちである、残念ながら日本のデータは公表されていない。第3図
この結果を用いて、歩行者の割合と死亡率との関係をグラフにしたものが次のグラフである。これを見ると、国の事情や調査年度が異なるのにかかわらず、歩行者の割合が多いほど死者の割合も増加することがかなり良い相関で見られる。当たり前だといえばそれまでだが、このことからは、歩行者事故は国や地域の道路事情にあまり関係していないように見える。第4図
歩行距離と事故死者の割合の関係を見てみると、相関はあまりよくなく、数百メートルから2kmまでの歩行距離にかかわらず事故死の割合は歩行者の全死者率(第一図)と同程度であるといえる。すなわち、歩行距離に関係なく短距離の道路歩行でも危険であることがわかる。第5図
公共交通機関を利用する場合に必要な公道の平均歩行距離のデータとしてノールウェーの例を見ることができる。第6図
これは、各交通機関を利用するためにどれだけの距離の歩行が必要かを統計したものである。最初の二つ、自転車と自分の車は公道の歩行はないとみると、ノールウェーでは、公共の交通機関を利用する人は、平均400mから800mの公道での歩行が必要であることがわかり、第5図のグラフで見るとこの歩行距離だけで全歩行死者率の80%程度を下らない。
このフォーラム報告では、世界のどの国の道路交通事故の原因研究においても、歩行者の事故原因の究明と道路環境との関係が抜けていたことを指摘している。また、道路管理の悪さから歩行者の転倒など、特に高齢者の死亡につながる障害事故の統計や、道路管理者の責任に関する研究も重要であることを提言している。
なお、第1図から、日本の歩行者の事故死率を35%とし、第4図で求めた直線近似式で外挿すると、歩行者の割合は56%程度と推定され、都会での歩行者率としてそれほど不自然ではないようにおおもわれる。
結論として、日本の歩行者死亡率がヨーロッパの車交通先進国の3倍近く多いのは、公共交通機関の利用が多くそれに伴い道路歩行が多いいことにあるといえないだろうか。
公共交通機関そのものは安全であり、省エネ、温暖化ガスの放出が少ないなど、非常に良い交通機関であるが、個人の移動目的を満たす総合的な交通の安全性を考えると、個人で運転する車による移動が最も安全であるといえる。このことを、公共の交通機関が発達している日本の統計が示しているといえよう。
「日本の交通死者の3分の一以上が歩行者であり、その上およそ半分は65歳以上の高齢者である。その理由として高齢化社会でありながら、65歳以上の高齢者は40%ほどしか運転免許を持たず歩行(自転車)が多いことにある」。これはOECD/internationaltransportforum 2011の日本の報告書のサーマリーの一節である。
歩行者事故を運転者だけの責任として犯罪性を摘発するだけでは日本のこの状況は変わらない。ここにきて、公共の交通機関の利用を進めるためには、人と車の共用道路について、科学的な安全管理の研究と管理者の責任の追求が急務であることをこのデータは示している。
今年初めての芝刈り
一方通行の日本の教育。 議論や質疑を避ける文化、特に官僚機構のような上下関係では上司との議論はタブーのような習癖、自己主張のない会話では相手の真意を確かめられない。
会話で重要なのは自分の考えを相手に分からせることである。そのためには相互の文化の理解が必要であり、言語は単なるその手段だけである。
お話を聞いて理解し返答するだけの会話能力だけでは今までの読解力の能力試験と大差ないように思う。
中等・高等教育で議論をする訓練を取り入れ、会話により相手がどのように理解しているか、自分の意志は通じているか、あるいは、相手の云っていることから真意を知る訓練をすることが必要である。国会討論などでしばしばみられる様な、「言葉尻を捉え」 独断的決めつけで相手を非難をすることは議論ではない。
議論を避け、異論を排除し、同意を前提ととする日本の文化は居心地がよいが、国際的に理解を得られないばかりか誤解をされやすいように思う。
現政権 現状の東アジア情勢を利用して外敵を作り、絶対的な政権体制を獲得したいのか?
80歳以上の世代 この人たちの憲法に対する意見こそが ”証拠のある見識であり” 傾聴し尊重すべきである。 現在の権力者の目先の思惑に惑わされない、日本の将来についての間違いのない判断のために。
憲法改定に関するメディアの世論調査 年齢区分での統計結果を知りたい
今年で80歳になる人たちは日本の敗戦時小学6年生であった。戦時初等教育をうけその記憶を持っている最後の世代である。
父親や親族を兵隊として亡くしたり、家族親戚を爆撃による空襲で亡くした世代。
戦後教育ばかりでなく、社会的混乱と価値判断の大変革の中で育った人々。
そして、社会資本ゼロから世界第二の経済国家を作り上げた世代。
この人たちの憲法に対する意見こそが ”証拠のある見識であり” 傾聴し尊重すべきである。
権力者の目先の思惑に惑わされない、日本の将来についての間違いのない判断のために。
強いものにこそ厳しく当たる欧米文化 日本の要人の不用意な発言への攻撃は日本軽視の結果ではない だが 日本の要人の普遍的な見識のない言動は 欧米知識人の優越感をくすぐる恰好の話題となる
最近話題となったいくつかの日本の主要政治家の不用意な発言。なぜそんなことが起こるのか考えてみた。
自分が属する組織や仲間内での力学には敏感、失点のない行動、その結果権力のトップに到達した人たち。そして権力の座が上に行くほど周囲にはイエスマンばかり。馬鹿な発言でも周囲はもり上がる。こんな状況に長年置かれれた甘えの構造と見えるがどうだろう。
国会答弁など国内行政の重要な発言では、官僚の書いた文書を一言一句の間違いもなく読み上げる。しかし、組織のシステムに沿わない外国関係や取材などでほころびが目立つのは優秀な協力者を個人のブレーンとして持っていないとしか思えない。
管理職が「偉い人」と見なされている日本の社会、これが基本的な間違いと思う。
管理職は ”優秀な人材を適材適所に配置し、その見識を総合的に集約し決断する職業的技術者”であり、自分が権力の座に上り詰めたとしても、所詮支援組織の中の話、その人個人の判断力や見識の普遍性が備わるわけではない。
現代の複雑な社会、全般にわたって個人の能力が及ぶ範囲ではない。
5月 庭に咲いた最初のバラ
東日本の大震災、それに続く東京電力福島原発が起こした放射能災害。それでも日本の市民はお互いに助け合い自らで秩序を守った成熟した社会。世界の評価は驚きをもったニュースとして発信された。
それに比べ、日本政府をはじめ行政は己の組織、責任逃れに右往左往しただけの不手際の評価しかなされなかった。
もうこのあたりで、われわれ市民が行政に管理されることの腹立たしさと不条理を認識し拒絶反応を示そう。
もちろん、日本の市民が全員正直者だというのではない、ここで言いたいのは、一流国家になるには納税者を信用するのを原則とした行政に改革すべきということである。
嘘の申請を摘発し防ぐことは行政の仕事ではなく、市民の自己申告を信用することを基本とすることが行政サービスである。どんなつまらないことにも行政の証明書を要求される社会。これは世界の常識ではないばかりか、その業務をする各種役所、税金の無駄遣いである。反社会的行為があった場合の摘発は検察の仕事であろう。
品位のある民主主義社会は市民を信用するのが基本である。私の知る先進国では、日本ほどことあるごとに証明書を要求されることはない。旧態然としているのは日本の権力機構であろう。