最高裁 水俣病認定は 行政上の一律の解釈でなく 個人の客観的事実(科学的証拠)を確認すべきものとの判決
上級審に行くに従い、法解釈の技術的な完ぺきさに長い時間を浪費し、素朴な哲学では理解し難いい判決が多い中で、これは素人にもわかりやすい倫理にかなった判決と思う。
しかし半世紀、大部分の被害者がすでに死亡したのちの”おとぎ話のような”感はぬぐいきれない。
最高裁は、法律の番人ではなく、我々に残された最後の正義の見方でなければならない。たとえ法規の技術的運用に疑問があっても、それを指摘され差し戻されることのない機関であり、法律の誤りを正す機関としての責任を果たすべきである。
無関係な話と思われるかもしれないが、カナダのバンクーバー市では麻薬常習者に看護師の管理下で衛生的な施設で無償の麻薬を供給し、危険な不法麻薬の非衛生的な注射によるエイズや肝炎あるいはショック死事故を防ぐ試みがなされている。当然このような違法行為を公共機関がすることに対し訴訟が起こされたが、最終審でこの事業を存続させる判決を得、現在も続行されているとのこと。どう考えても法律運用技術だけでは得られない、事実に重きを置いた判決と思わざるを得ない。
ヨーロッパのいくつかの国でも同様の試みがなされているようだ。現実を重んずる社会ではあるが、まだアメリカではこのような施設はどの州や市でも許されていないように見える。
つい50年ほど前まで、アメリカではドライステートと云われる禁酒法時代の名残が見られる州があったが、結局禁酒法は、違法飲酒の摘発者を増やし、不純物を含む密造酒の被害や暴力団の資金源となる犯罪組織を助長するだけで禁酒社会の実現にはならなかった。
麻薬の副作用は、アルコールと比べ物にならないが、ただどんなに罰則を強くし、監視を厳しくしても撲滅できないのが世界の現実である。これは、建前だけで現実を見て見ぬふりをすることの被害が無視できないことに直視しての試みであろう。
裁判所が”いい子”にならず、社会的非難を承知の上での英断をしなければ出来ないことである。