証拠が確認されなければ無かったと同じこととなる弁護士の世界と全ての証拠の上に成り立つ自然科学の世界
これは今回の福島東京電力第一発電所原子炉群からの災害に対する、政府、東京電力の対応と、実際の放射性物質の拡散による住民の被害の状況について感じていることです。
放射性物質の拡散とその結果地域に生ずる放射能汚染の現象は、自然科学でのみ把握されるべき物理的事象であり、どんなに言葉で言いくるめても事実は変わらない。自然科学は、云い方を換えれば、過去に起こった全ての証拠(データ)に基づいて合理的に将来に起こるべき状況の予測をする文化である。そして、自然科学的文化は、その思考過程を検証可能な記録として完璧に備えていることが必要条件である。これは分かりにくい表現かもしれないが、もし間違いがあった場合にも、その原因がはっきり究明できるデータを明確にしていると云うことである。
今回の原発災害に対する政府の行政は、裁判の被告人のように、将来責任問題が起こらないよう不利な証拠となるデータを公表しない権利を主張し、慎重に言葉を選んで、どんな事態が起こっても責任を回避出来るよう終始しているように見えることである。
東京電力は明らかに社会に対する犯罪被告の立場であり、経営陣は組織を守る権利を保有するかもしれないが、政府の取るべき義務は、超法規的に全てのデータを東電組織の管理職のスクリーニング無しに、自動的に電子的手段で公表させるよう権力を行使する事態にあると思う。
弁護士の世界では、証拠を確認できないような手段に成功すれば、事実が存在しなかったとのと同様の結果が得られるかもしれないが、今回の放射能拡散は物理的現象であり、証拠を認識しようがしまいが、事実は変わらないことの認識が欠如していると思われる。
日本に限らず、現在の世界の先進国の政治が弁護士出身族に毒されているように感ずるのは私の偏見かも?
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