ガードレール2児を串刺しに 道路設置者の責任が最も重大であろう
なんとも言いようのない悲劇。
23日岡山での悲惨な事故、どのニュースの記事を見ても運転していた母親の悲しみを思いやる配慮や同情が見てとれない。我々の社会はどうしてそうなったのだろう。
科学的検証に基づく人間工学では、人間は過失を犯すものであり、たとえそれが自分や親族の命にかかわることであっても皆無ではないことがはっきりしている。このような過失は確信的な犯罪とは区別されるべきである、誰もが遭遇することがある確率事象であり同情すべき災難である。
前にもこのような危険を書いたことがあるが、ガードレールの切れ目を車に突き刺さらないよう曲げて徐々に高さを低くし地面に埋め込んであればおそらく今回の事故は、車がそれに乗り上げ横転したとしてもけがで済んだだろう。最悪の車内に突き刺さることがなかった可能性が高いと思われる。たとえ過失で運転を誤っても死傷を最小限に抑える道路構造を設置し管理するのが道路管理者の義務である。ちょっと手直しすればより安全になる、このような容易に予測できる危険な構造に無関心で放置している道路管理者こそ最大の責任を問われるべきであろう。
いつも外国の例を出すとの声が聞こえるようだが、アメリカをはじめヨーロッパで運転をしていて気がつくことの一つに、必ずガードレールは上記のように埋め込んであり、切れっぱなしで放置してあるのを見たことがない。監督官庁の幹部管理者は公費での外国視察旅行の経験があると思うが、何を見てきたか疑問に思うことが多い。アメリカと違い道路が狭い日本では・・・という言い訳が聞こえてくるようだが、確かにアメリカでも馬車時代の道路と思われる狭い分岐点で、ガードレールが始まる切れ目の前に、高さが十分にありいやでも視野に入る大きな防御板が設置されているのを見た。車交通の経験が長い欧米では、事故を自分のものとして運転を誤ってもできるだけ重大な結果につながらない構造にする共通の社会的合意があるように見える。
交通事故は現代の避けることができない災難であるという認識から、信号方式や道路の安全設備が研究され、出来る限り設置するよう努力している欧米自動車先進国に比べ、運転者への注意事項だけがやたら目につく日本の現状はどこに原因があるのあろうか。
適当な映像が見当たらなかったが、一例として交差の中央分離帯のガードレールの始まりの部分の示す。