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教育委員会の汚職事件に思う

2008/07/22

人事権を持つ教育委員と現職教員管理職がからむ採用、承認人事贈収賄事件。言うまでもなく影響の大きい最悪の社会事件である。日本では、現場関係の一般職員の小さな汚職事件は極めて少ないのに比べ、官界、民間を問わず、上級管理職の汚職事件が多すぎるように思う。

教育委員会制度は、形の上では、時の政治勢力や、中央集権の教育管理を避けるための地域組織であるが、今回の事件は、嘗ての日教組対策などのため、強力な人事権を与えられ、政治的に任命された少数の幹部委員に権力を集中させた結果の弊害と思われる。ここ数年いじめ問題の対策などで教育委員会の無能さが言われてきたように、教育委員会は教育現場から遊離した管理組織になっていたものと思われる。

試験万能主義: 試験の点数が一点でも高いものが評価されるのが正しく且つ公平であると云う”神話”が蔓延しているが、これははたして意味があるだろうか? 試験問題を作成した経験者なら体験しているように、学期末試験のような、特定の教科の狭い範囲の試験でも、問題を変えて2回試験した場合、同じ点数分布になることはない。わずかな点数の差は偶然の結果である。今回の汚職事件で露呈した愚かな点は、この試験点数至上主義のため、取得点数上位の者の点数を引き下げ、下位の特定の者の点数を加算し偽装して、さも公平なように見せかけて合格させたことである。また、疑惑が発覚しそうになると過去の記録を破棄したことも公務員として義務違反である。法律や条例に規定があろうとなかろうと、公務で行った業務の記録は公的記録であり、これを廃棄すること自体が犯罪行為であるという常識がない。今回の事件の全容はわからないが、偽装原簿がなくても、パソコン処理時代の現在、おそらく分散された複数の成績データから不正処理の経過が解明で出来る可能性がある。

人事にかかわらず、人物のの評価に完璧な方法はないが、試験の成績は資格の最低基準の確保に使うべきで、たとえば新規採用にについては、専門の試験官だけでなく、学区の親権者から無作為で選ばれた委員による面接評価など、多様な面からの評価記録を作成し、最終決定権は部下に採用する直属の校長に与える。校長は、上位の教育委員会の意向を汲んだり、友人の子弟を採用するから余計不公平になると思うかもしれないが、採用した理由の記録や、その後の監督記録を公文書として学校と、教育委員会事務局などに分散して保管する。現場の責任者としての裁量権を与える代わりに記録により結果の責任を明確にする。こんなことは、実現の可能性のない空論と云われかと思うが、欧米ではこれに近い管理体制が現実に運用されていることを知ることも必要であろう。

30年ほど前、知人のお嬢さんがハーバード大学を受験したときの話だが、高校の成績が基準以上であることは絶対条件であるが、入学選考の手続きの最初の段階は、居住地区のハーバード同窓会のメンバーの面接から始まって、複数の段階での多数の人の評価を受け、その評価記録により入学の適否が判断されるシステムと聞いた。公的な文書は役職者宛ての手紙を含め、すべてコピーして分散保管する規則があり、秘書が専門的な基準で自動的に処理するので、管理職が勝手に記録を破棄することはできない。このようにして管理職の行為は記録により明確にされ、結果について後々まで評価を受けることになる、このようにして社会体制を守るシステムが運用されている。

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