ジャーナリズムは裁判官のまねをする必要は無い
2005/12/15
今回の耐震設計偽装問題関連のニュースを見るたびに疑問を感ずる。
国会で姉歯証人が、「専門家ならばこの設計仕様を見れば誰でもおかしいと分かるはずだ」,「
このようなことは私一人で出来ることではありません」と証言した。
この二つの証言は、本人に言わせるまでも無く、事件が発覚した段階でメディアが疑いを持ち、専門家や業界に取材すべきことではなかったか。
画期的な新技術、特殊な鋼材やコンクリートを用いない限り、通常の30、40%も基本的な建築材料が少なくてすむはずが無い。建築専門家でなくても常識のあるものが少し考えれば思い当たることである。もしそれが本当なら、その技術開発の成果こそニュースになるべきである。
しかしメディアが、この常識で分かる状況を、取材により裏づけを取って告発した内容の記事を殆ど見受けなかった。ジャーナリズムは、取材により状況証拠を探し社会に提示し、不正の疑いを社会に知らせることに価値があると思う。一部の関与した業界から、証拠の無いことを報道したら訴訟するとか、もっと悪意のある、暴力的な脅しの可能性を考えて無難な報道にしているのであろうか。
検事や裁判官は、現行法を扱う技術者としての制約を受けるが、ジャーナリズムは法律の不都合を議論するための資料を社会に提供する役目があるのではないかと考える。
勝手に改変出来るソフトを国のお墨付きとして認可する神経も分からない。そのような重要なソフトならば、高速通信の手段が実用化している現在、国の管理下にあるサーバーでシステムを管理すれば、改変できないばかりか入力されたデータを記録保存することも出来る。何千ページものプリントされた書類を、役所の一級建築士がペラペラめくる審査など無駄の骨頂であることは誰にも分かっていることではなかろうか。
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